私が夜中に目覚め、庭にあるトイレに向かおうとして台所の前を通ったときに、人の気配を感じたのだった。密かに中を覗くと、普段は決して台所に入らない祖父の姿があった。
背中をこっちに向けて、しゃがんで何かを燃やしている。目をこすってよく見ると、そこで燃やされているのは何と、私が祖父から渡された文言を書き写したノートではないか。
わが目を疑うほどの、衝撃的な光景であった。
なぜ、どうして、そんなことをしなければならないのか。その当時の私には、まったくわからなかった。
その謎が解けたのは、祖父が亡くなった後、私が大学生になってからのことである。実は、祖父が私に書き写しを命じたのは全部、かの有名な『論語』の言葉であった。
『論語』の文章と現代中国語の文章は、日本人から見ると同じ「漢文」に見えるかもしれないが、文法的にもまったく組み立ての違う文章である。山村に育った小学生の私が、十分に理解できるはずもなかった。
にもかかわらず、生徒に『論語』の言葉の意味をいっさい説明しないまま、ただ何百回も書き写させるというのは、まさに祖父の世代の教育法である。祖父は、この古式に則ったままの『論語』教育を、孫の私に施したわけである。
しかし、このような『論語』教育を、まるで悪事でもやっているかのように「密か」に行ったのは、別に「古式」でも何でもなかった。それは、「文化大革命」の時代における特異な事情によるものである。
毛沢東の発動した「文化大革命」は文字通り、「文化」に対する革命であった。つまり、中国の伝統文化を「反動的封建思想・封建文化」として徹底的に破壊してしまおうとするものであった。その中で、孔子の思想は、葬るべき「反動思想」の筆頭として槍玉に挙げられたのである。
このような状況下では、子供に『論語』を教えることなどは、まさに許されないことだった。もし見つかったら、大罪として徹底的に糾弾されたであろう。発覚したら、祖父の命すら危なかったかもしれない。だからこそ、祖父は私に『論語』を教えるのに、ああするしかなかったのである。
更新:11月24日 00:05