始皇帝が戦国時代の中国を統一し、自らを皇帝と称して建国した秦は、実はそれまでの王朝とはまったく違う中央集権国家だった。しかし、強大なはずの秦はわずか15年で滅んでしまう。始皇帝の誤算とは何だったのか?
※本稿は、石平著『新中国史 王の時代、皇帝の時代』(PHP研究所)を一部抜粋・編集したものです。
「商鞅(しょうおう)の変法」で富国強兵に成功した秦国は、国王嬴政(えいせい)の指揮下で、前226年から「戦国七雄」の他の6カ国を次から次へと滅ぼして天下統一を果たした。
それに伴って、中国史上最初の統一帝国が創建されたのだが、この新しい統一帝国の主となった嬴政は当然、「国王」という従来の称号に満足せず、自らの新しい称号として「皇帝」を採用した。それは、古来の最高神である「天皇」「地皇」「泰皇」という「三皇」から「皇」という1文字を取り、さらに上古の伝説中の聖君である黄帝や堯・舜などの「五帝」から「帝」の1文字を取って新造した称号である。
この称号を採択した秦王の意図は、宇宙の最高神であり万物の総宰者である「皇皇(こうこう=煌煌)たる上帝」に自らを比擬し、それまで地上に現れたどの君主(帝、天子、王)よりもはるかに優越した地位と権威を天下に示すことにあったと考えられる。これにより、「皇帝」というものが中国史上で誕生したのである。
皇帝となった嬴政はまた、それまでに秦国のなかで原型を整えた郡県制をモデルに、皇帝独裁中央集権制の統治システムをつくり上げて全国で実施した。
全国の土地を諸侯たちに領地として分け与える封建制とは違って、中央集権性の下では、全国の土地と人民はすべて皇帝の領有となり、王朝の直接支配下に置かれる。そして以前の諸侯たちに代わって、各地方の統治にあたるのは皇帝の手足として朝廷から任命される官僚である。
命令はすべて都にある朝廷から発せられ、権力はすべて朝廷に集中していることから、それを「中央集権制」と呼ぶ。そして朝廷の唯一の主はすなわち皇帝であり、意思決定の最終権限は皇帝の手にあることから、筆者はそれを「皇帝独裁の中央集権制」と名付けている。
秦の始皇帝がつくり上げたこのような皇帝独裁中央集権制は、1つの重要な点において、封建制時代すなわち「王の時代」の政治システムと根本的に異なっている。
「王の時代」の封建制においては、殷王朝や周王朝の王は名目上、全国の最高支配者ではあるが、当時の中国すなわち天下は実際、諸侯となった多くの氏族集団によって分割統治されている。
周王朝の王は天下の主権者ではあるが、唯一の主ではない。各地方では、公・侯・伯・子・男の爵位をもつ氏族集団の長が貴族としてそれぞれの領地を治めている。
しかし皇帝独裁の中央主権制の下では、各地方を治める氏族集団はもはや存在しない。秦の始皇帝は天下を統一したのち、滅ぼされた6カ国の貴族たちを全員、首都の咸陽(かんよう)に移住させて統治システムから排除した。そして、排除された貴族たちに代わって各方を統治するのはすなわち、守・令・尉など、皇帝の任命で朝廷から派遣された官僚である。
つまり「皇帝は唯一の主、人民と官僚のすべては僕である」という、いわば「一君万民」の政治体制が秦王朝において出来上がったのである。
更新:12月02日 00:05