<<評論家の石平(せき・へい)氏は近著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』にて、多くの日本人が常識だと考える「論語=儒教」に対して、疑問を呈している。
自身が幼少の頃に、祖父の摩訶不思議な「教え」から『論語』に接し、のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱くようになったのだという。
ここではその石平氏の幼少の頃の「論語」体験を語った一節を同書より紹介する。>>
※本稿は石平著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
中国生まれの私が『論語』と出会ったのは、例の「文化大革命」の嵐が中国大陸を吹き荒れていた最中のことであった。
私の出身地は中国・四川省の成都市、両親は二人とも大学の教師である。しかし1966年、私が4歳のときに「文化大革命」が始まると、両親は大学から追い出されて、成都郊外の農場で強制労働をさせられる羽目となった。
そこで両親は子供の私を四川省の山村で暮らす祖父母に預けることとなり、五歳から小学校五年生まで、私はこの山村で育った。
山村の風景は、私が今暮らしている奈良市や大阪の田舎のそれとよく似ていた。里山があって田んぼが広がり、竹林に覆われる丘と田んぼの間には、農家が一軒また一軒と点在している。文化大革命の最中でも、紅衛兵たちはそんな辺鄙な寒村にめったに来ないから、都市部と比べればここでの生活は幾分静かであった。
祖父は村の漢方医である。自分たちの住む村だけでなく、周辺一帯でも「名医」として名が通っていた。毎日のようにあちこちから患者が受診に来るのだが、私の記憶では、ほとんどの人が診療代の代わりにお米や鶏や鴨や卵や野菜などを持ってくるものだから、祖父母と私の三人の生活は、貧困でありながらも食べることに困ったことはなく、いたって平穏で安定していた。
私たち子供は毎日のように里山で遊んだり合戦ごっこをしたり、時には川や田んぼで小魚や泥鰌(どじょう)をつかまえて焼いて食べたりしてずいぶん楽しんでいた。七歳になって村の小学校に入ってからも、午後の授業をサボって里山を駆け巡って遊ぶのは、私たち悪ガキ集団の日常であった。
祖父母は私の教育に関してはいたってルーズであった。学校をサボって遊びふけたことがばれてもそんなに怒らないし、外の喧嘩に負けて泣いて帰ってきても、老人の二人は見て見ないふりをして、「何かあったのか」とはいっさい聞かない。唯一、祖母に厳しく言われたのは、「弱い子、小さな子を虐めたら絶対駄目だよ」ということだったが、他のことはどうでもよい風情である。
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祖父は孫に、意味もわからぬ文字をただひたすらに書き写させた >
更新:11月21日 00:05