祖父のほうは、私の国語(中国では「語文」という)教育にだけこだわっていた。
「算数ぐらいは学校で勉強してもよいが、お前の国語の勉強だけは、学校の青二才の先生にとても任せられない」というのが、祖父のいつものセリフである。そのため、私が小学校に上がったその日から、ほとんど毎日のように祖父の自己流の国語教育の施しを受けることになった。
そのお陰で、国語の成績にかけては、私は常にクラスの一番であった。悪ガキどもが誰も書けない難しい漢字もさっさと書けるし、学校の先生でさえ知らない四字熟語もいっぱい覚えた。この小さな小学校で、私はいつしか、国語の「師匠」と呼ばれるようになっていた。
しかし小学校四年生あたりから、祖父の私に教える国語は、以前とはまったく違う奇妙な内容となった。
以前は、新聞や本を教材にしていたが、今度は、祖父が一枚の便箋にいくつかの短い文言を書いて私に手渡し、自分のノートブックにそれを繰り返し書き写せ、と命じるのである。
しかも、一枚の紙が渡されると、一週間か十日間は同じものを何百回も書き写さなければならない、という退屈極まりない勉強である。
さらに奇妙なことに、明らかに現代語とは違ったそれらの文言の意味を、祖父はいっさい教えてくれない。どこから写してきたのか、誰の言葉であるかもいっさい語らない。「書き写せ」との一言である。
今でも鮮明に覚えているが、たとえば、「不患人之不己知、患己不知人也」「興於詩、立於礼、成於楽」などなど、小学校四年生の私にはその意味がわかるはずもない難しい言葉ばかりである。それでも祖父の命令で、毎日自分の手で、それを何百回も書き写さなければならなかった。
しかし、それよりもさらに摩訶不思議なのは、この件に関する祖父の奇怪な態度である。
毎日家の中で、私にそれらの言葉を書き写させながら、学校ではそのことを絶対言ってはいけないと厳命した。そして、祖父に渡された便箋もそれを書き写したノートも、最後は一枚残さず祖父に回収されるのである。
祖父が私に書き写しを命じたそれらの言葉は、きっと良い言葉なのであろう。なのにいったいどうして、悪いことでもやっているかのように奇妙な行動をとるのか、子供の私には不思議でならなかった。
夜中に目撃した信じられない光景そして、ある日の夜、私は信じられないような光景を目撃することになった。
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なぜ「論語を教えること」は密かに行わなければならなかったのか? >
更新:11月24日 00:05