<<評論家の石平(せき・へい)氏は近著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』にて、多くの日本人が常識だと考える「論語=儒教」に対して、疑問を呈している。
自身が幼少の頃に、祖父の摩訶不思議な「教え」から『論語』に接し、のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱くようになったことで、この結論にたどり着いたのだという。
ここでは石平氏の主張の一端を同書より紹介する。>>
※本稿は石平著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
孔子は、人生経験が豊富な常識人ではあるが、いわゆる哲学者でもな
ければ聖人でもなく、宗教家や「教祖様」のような存在とはなおさら無縁の人間であった。
そして『論語』という書物は、人生の指南書として大いに読むべきものであっても、哲学の書であるとは言えないし、いわゆる聖典でもなければ宗教の教典でもなかった。
言ってみれば、孔子という知恵者の長者が、弟子たちに向かって賢明な生き方や学び方や物の見方を諄々と語り教える、それが『論語』という書物のすべてであった。
しかし後世になって成立した儒教において、孔子は「聖人」や「至聖」に持ち上げられ、儒教の「教祖様」のような存在に祭り上げられた。
さらに後世になって成立した儒教教典の「四書五経」では、『論語』も儒教の聖典の一つに位置づけられ、科挙試験に必須の教科書となって、読書人であれば誰もが恭しく「拝読」しなければならない一冊となった。
もちろん、後世の儒教において孔子が「聖人」に奉られたことも、『論語』が聖典に持ち上げられたことも、それらは全部、孔子の与(あずか
)り知るところではない。孔子にとってそれは甚だ不本意なことであろう。
というのも、後世において誕生し成立した儒教は、孔子を「教祖」と祭り上げながらも、実際には孔子や『論語』とは関係の薄い教学だったからである。
更新:11月21日 00:05