毛沢東の時代が終わってからしばらくして、鄧小平という人物が共産党政権の事実上の最高指導者となった。1980年代初頭からの鄧小平時代において、経済の立て直しを狙いとする「改革開放路線」が推進されると、中国はその侵略的野望を一時的に棚上げして西側先進国や周辺国との「友好外交」に転じた。
鄧小平がこのような路線転換を行なった理由の1つは、友好と平和の国際的イメージをつくり上げて西側先進国から技術と資金を導入しやすくするための環境整備にあるだろう。
もう1つの理由は、鄧小平自身が「皇帝」になることに興味がなく、周辺民族や国々に対して毛沢東のような侵略行為を行なう必要がなかったからである。
その後、鄧小平が最高権力を毛沢東指定の後継者から奪取しようとしたところで、1979年、中国軍は隣国のベトナムに侵攻して文字通りの侵略戦争を行なった。しかし、それは勇猛なベトナム軍によって撃退され、失敗に終わった。それ以来四十数年間、鄧小平の時代と鄧小平路線を受け継いだ江沢民政権・胡錦濤政権の時代、中国は対外的には概ね控え目の姿勢であって、侵略的行為を一時的に引っ込めた。
この状況が大きく変わったのは、2012年秋の共産党大会で今の習近平政権が成立した時からである。
習政権が成立した時から、習近平主席は鄧小平時代以来の「集団的指導体制」を破壊して自らの個人独裁体制を確立し、強化してきた。その一方、彼は憲法における国家主席の任期制限を撤廃して自分のための終身主席への道を開いた。習氏は明らかに、かつての毛沢東に倣って終身独裁者として中国に君臨し、事実上の「新皇帝」になろうとしているのである。
そして前述のように、中国の皇帝政治の常として、本物の皇帝は対外的征服を行なって周辺地域を支配下に置かなければならない。21世紀の「新皇帝」たることを目指しているからこそ、習主席は共産党政権のトップとなって以来、鄧小平時代以来の対先進国「友好外交」から路線の転換を行ない、再び侵略的な覇権主義路線に走り出したのである。
更新:11月22日 00:05