やはりそうであった。『論語』というものは、儒教とも朱子学とも礼教とも最初から違うのだ。『論語』が求めようとしているのが「愛」であるなら、権力への奉仕を本領とする国家的教学の儒教とは自ずから違っている。
人間の感情や欲求の抑圧を旨とするあの冷酷極まりない朱子学や礼教とは、正反対のものなのである。
このようにして仁斎を知ることによって、私の長年の疑念は完全に解消された。
さらにいえば、日本人と中国人の違いを理解するための鍵の1つも発見したような気がした。中国では前漢の時代以来、国家的教学として儒教が支配的地位を占めるようになり、明清時代はさらに朱子学と礼教によって支配されていた。
それに対して、江戸時代以来の日本人は逆に、礼教や朱子学から遠ざかって『論語』に親しんでいった。
じつはそういうところこそ、双方の国民性や心のもち方の違いにおける原点の1つではないかとも思った。
つまり日本人は昔から、朱子学や礼教よりも、人間的温もりがあって愛の溢れる『論語』を大事にしてきた。そこから大きな影響を受け続けているから、この日本で暮らす私の周りには、優しくて思いやりのある温かい日本人が大勢いるのだ、と。
いってみれば私は、中国四川省の田舎で祖父に『論語』に教わってから数十年後、この日本の生活と勉学のなかで「論語の心」を発見し、それを理解することができた。私という人間は、何という幸せな果報者なのか。
更新:11月15日 00:05