(イラスト:斎藤稔)
<<評論家の石平(せき・へい)氏は、近著『中国をつくった12人の悪党たち』でこう述べている。
「腹の黒い悪党ほど権力を握って天下を取るのは中国史上の鉄則であって、中国の歴史と中国という国のかたちはこのようにしてつくられていった。中国をつくったのはまさに悪党たちなのだ。中国の歴史も、中国という国のかたちも、まさにそれらの悪党によってつくられているのである。このような伝統は、現代になっても生きている。」
英雄譚、美談に彩られた中国史上の有名人の本質に迫った同書より、本稿では世界史にその名を刻んだ「悪女」、則天武后の残酷さとその原点に触れた一節を紹介する。>>
※本稿は石平著『中国をつくった12人の悪党たち』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
曹操や諸葛孔明が活躍した三国志から約四百年後の六一八年、中国大陸では唐の王朝が立った。それまでには、大乱世の南北朝時代や短命政権の隋王朝時代があったが、唐王朝の創建により、中国はふたたび長期的な安定と繁栄の時代に入った。
あるいは、唐王朝の成立をもって、中国はその歴史上もっとも絢爛豪華な時代を迎えた、というべきであろう。
唐王朝の安定と繁栄の基盤をつくったのは、王朝の二代目皇帝で、中国史上きっての名君といわれる唐太宗その人である。彼の名君ぶりは日本でもよく知られているものだから、ここでは詳しく記述しない。
とにかく、多くの有能な臣下を抱えて彼らの意見に謙虚に耳を傾け、最善と思われる治国の方策を練り上げて着々と実施していくという唐太宗の政治的スタイルは、その後の歴代王朝でも皇帝たるものの見本とされているのである。
本稿の主人公である則天武后(そくてんぶこう)(六二八年? - 七〇五年)は、まさにこの一代名君との関係をもったことから、歴史の舞台に登場してきたのである。
太宗治世の貞観(じょうがん)十五年(六四一年)、中央官僚の家に生まれた武照(ぶしょう)という十四歳の少女が選ばれて後宮に入り、妃の一人となった。それがすなわち、のちの則天武后である。
入宮して八年目に太宗が崩御したため、武照は多くの妃たちと一緒に尼寺に入れられて亡き皇帝の菩提を弔う日々を送ったが、後述するような経緯により、彼女は次代皇帝の高宗(こうそう)に見初められて高宗の妃として再度入宮した。二十五歳のときであった。
それからわずか三年後、武照は現役の皇后を引きずり下ろして唐帝国の皇后の座に昇り詰めて武后となった。さらに数年後には、武后は皇帝に取って代わって政務を仕切り、唐帝国の事実上の最高権力者となっていった。そしてそのときから三十数年間の長きにわたって、武后は帝国の実質上の支配者でありつづけた。
女性として帝国の政治権力を握ることは、すでにこの時代のタブーを破った驚天動地の革命行為だったが、紀元六九〇年、則天武后が六十三歳のとき、彼女はそれこそ中国史上空前絶後の革命を断行した。
唐帝国を乗っ取って自らが皇帝の座につき、自分の王朝をつくったのである。則天武后はそれで、中国史上唯一の女帝となった。
もちろん、それだけの革命を成し遂げるまでには、則天武后は数多くの修羅場をくぐり抜けて、生きるか死ぬかの権力闘争を四十数年以上も勝ち抜いてきた。闘争に勝つためには、彼女はありとあらゆる悪辣(あくらつ)な謀略を駆使して残酷な手段の限りを尽くした。
それがゆえに、彼女は中国史上屈指の謀略家の一人に数えられ、「稀代の悪女」との名声を歴史に残した。
更新:10月30日 00:05