<<評論家の石平(せき・へい)氏は近著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』(PHP新書)にて、多くの日本人が常識だと考える「論語=儒教」に対して、疑問を呈している。
日本と中国の国民性の違いから、論語と儒教が異なるものだと言えるという。ここではその一節を同誌より紹介する。
※本稿は月刊誌『Voice』(2019年5月号)に掲載された「孔子は儒教の創始者ではない」より一部抜粋・編集したものです。>>
「儒教体験」を通して、私は「『論語』と儒教とは別々のもの」という個人的認識をもつようになったのだが、それが一種の確信となったのは、日本に来てからのことである。
日本留学の2年目に神戸大学の大学院に入ってから、神戸三宮の本屋に通った。そこで発見した中国古典、あるいは中国思想史のコーナーでは、『論語』関連の書籍がずらりと並んでいることに驚いた。日本人がそれほど『論語』を愛読しているのかと初めて知った。
そして大学図書館で探していくと、『論語』の注訳本や研究本、一般向きの解説本など夥しい点数が刊行されていることも知った。
いくつかを借りてきて読んでみると、『論語』に対する日本人の学術研究と解説のレベルの高さに、またもや驚いて感服せざるをえなかった。数千年前の中国で生きた孔子という人の言葉をそれほど大事にしている民族は、日本人以外にないのではないかとも思った。
日本での生活のなかでも、やはり『論語』の気配を強く感じた。大学の指導教官から下宿先の管理人、バイト先の料理屋の板前から日本在留保証人のサラリーマン夫婦など、留学生活で関わった日本人の全員は親切で思いやりがあり、礼儀正しい人たちばかりであった。
彼らの行ないを見ながら、私がつねに思い出していたのは『論語』のさまざまな言葉であった。彼ら全員が『論語』を読んでいるとは限らないだろうが、その行ないはそのまま「仁」や「恕」や「礼」など、『論語』の徳目を実践しているかのように思えてくる。
そして彼らの姿はそのまま『論語』が語る人のあるべき姿ではないか、と私は思ったのである。
更新:11月15日 00:05