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【22世紀の人間像研究会】人間の身体の「解釈」はどこまで変わっていくのか(ディスカッション・3)

2026年04月10日 公開
2026年04月10日 更新

22世紀の人間像研究会

松下幸之助は終戦直後にPHP研究所を創設して以来、人間とは何かについて思索を重ね、その集大成ともいえる『人間を考える』(昭和47年〈1972年〉発刊)において、「人間には万物の王者たる優れた本質が与えられている」とする肯定的な人間観を提唱しました。

それから半世紀を経て、戦争や環境破壊、AIの進化など人類は新たな岐路に立っています。「22世紀の人間像研究会」では、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していきます。

本稿は文化人類学者の磯野真穂さんによる「文化人類学における身体性の解釈の変容」の話を受けた「22世紀の人間像研究会」メンバーによるディスカッションです。全3回でお届けします。

大災害やパンデミックの渦中で、私たちは誰の言葉を「正しい」と信じてきたのでしょうか。権威や常識が揺らぎ、崩れ去ったあと、私たちの判断を支える拠りどころはなお残っているのでしょうか。(構成:中嶋 愛)

 

「関係性」をめぐる東洋と西洋の違い

【磯野】日本では罪が親にまで拡散して一族郎党が社会的に罰せられるような状況がいまでもありますよね。

【為末】「あなたが育てたのだから、あなたの影響を与えたこの人が起こしたことは、あなたの責任だ」というロジックですよね。

【高梨】今の話は自由意志問題でもありますね。自由意志というものが本当に個人の中にあるのか、あるいは、先祖も含めて周りとの関係性の中で自分というものがあるのか。どちらの立場をとるかで何がどこまで許されるかというのは変わってくるんでしょう。

少し話が戻りますが、関係性から逃れたいと思うかというのは文化によっても違うのではないかと思います。結局、天に昇るか、地に還るかという問題ではないかと。西洋のバレエは重力に逆らって高く跳ぶかという芸術であり、逆に日本の能はいかに重力に従ってなじむかという芸術ですよね。それは関係性から思い切って飛び出すことと、関係性の中に埋没して美しく振る舞うという美学の違いでもあるような気がします。

西洋人すべてがそうだというわけではありませんが、仮に天に昇るということを美しいと思っている人たちがどうやって地上の関係性を断ち切るのかというと、一つは科学だと思います。科学的な物の見方、考え方というのは、いろんな客観的な説明を与えてくれる。

一方、東洋的な発想だと関係性の中に絡められていくことのほうがむしろ心地よいという考え方もある。「仲間と一緒」というのに非常に喜びを感じるような文化もありますよね。そういう文化だと科学が魂を自由にするものにはなりにくい。

ただ科学も星占いと変わらない部分もあります。狭い意味での科学は再現性のあるなしのようなことが言われますが、科学が相手にしているものでも再現性がないものや1回きりのものも幾らでもあるのです。

さっきのンデンブの人たちがやっていることにしたって、科学的に意味がないとは言いきれないと思います。たとえば西洋占星術で人間の臓器と1対1対応していると考えて、それで真剣に医療をやっていた時代が長く続いていました。だからンデンブみたいなものが科学に対立する発想だとは思わなくて、ある意味で科学的興味をそそられる話だと思いました。なんらかの説明を試みたくなる人間の営みって面白いな、それって好奇心という部分においては科学と根っこは同じだな、というレベルで。

なぜ病気になっているのかを理屈づけるには、いろいろな発想のやり方が当然あっていい。今いわゆる標準医療でないものもそれなりに人気のようです。科学的な見地からは噴飯ものもあれば、なんだかそれっぽく聞こえるけどやはり科学的とは言えないものまで、いろいろありますよね。患者側の科学リテラシーが試されているわけですが、怪しげなものまで含めてさまざまな治療法が提案されて、それを選ぶ人がいるという現象自体は、人間の一側面として興味深く思います。

ついつい危うい方向にも行ってしまう人間のありよう全部を否定してしまうと、結論だけ言ってしまいますが、まわりまわって次の時代の面白いサイエンスが開ける可能性をもなくしてしまうような気もしています。

 

「何もしなければ42万人が死亡する」を信じた人々

【為末】私は母原病の話もとても面白いと思いました。あれは「何かが起きるということは原因があったはずだ」から始まって、間違ったところに行ってしまったケースですよね。ンデンブの「この人がよくないふるまいをしている原因は悪霊がついているからだ」と同じ構造です。「何かがあったからいまこうなっている」とした場合、その「何か」を突き止めるのが科学であるとしたら、何にしておくと一番みんなの納得感が高いのか、という物語を求めるところがありますよね、

【高梨】医学って科学なんですかね。

【磯野】一般的にはそう言われていますよね。

【高梨】もちろん医学は科学が深くかかわる学問領域だと思いますが、いわゆる物理学などとはかなりスタンスが違います。たとえば統計における有意性の問題などを考えたとき、医学の場合はサンプルが限られてしまうので厳密な意味では検証できない。純粋物理とかでやっているような99.999%の精度を持って議論している世界とは全く違います。でも、究極的には真理の探究ではなく目の前の患者さんを救うことを優先すべきでしょうから、別にそれでいいわけですよね。同じ科学がかかわる分野でも、そういうスタンスの違いもあるとわかったうえで議論したほうがいいのかなとも思います。

医学が科学厳密主義ではなく、隙間があるからこそ独自の発想が出てきて、『母原病』のような本を書くお医者さんも出てくるのだと思います。

私、学生のときに天文台のアルバイトで電話番をやっていたのですが、マイ宇宙論をつくったから聞いてほしい、と電話してくる人がけっこういたんですよ。それで、はいはいって聞いていたんですが、いろいろな発想があって面白いんです。そうやって電話をかけてくる人はお医者さんが多かった印象なんですが、科学的素地をもった上で自由にいろいろ発想される人がいるからこそなのかもしれません(笑)。

【磯野】科学は物語と違うのか、というのは微妙な問題ですよね。それが露わになったのはコロナ禍のときです。感染拡大が始まった頃、当時北海道大学教授だった感染症疫学ご専門の西浦博さんが「感染拡大の防止策を実施しなかった場合、42万人が死亡する」というシミュレーションの数字を発表しました。それが1カ月間人流を8割削減しないといけない、という話につながった。あとになって、東京大学大学院教授の岩本康志さんという経済学者が、その際に使われていたシュミレーションのモデルには誤りがあったとし、書籍にまとめられています。。

何を言いたいかというと、あれを私たちは科学的な事実だと信じて、外出自粛や営業自粛をしたということです。そのこととンデンブの悪霊の話と何が違うのか。根拠となった計算式なんて誰も知らなくても「大学教授が言っているのだから正しい」、と思って信じたわけです。ンデンブ社会の人たちは、村で高名なシャーマンが「悪霊がいる」と言うので信じた。どちらも象徴の力を使っているので、実は科学と物語はそれほど簡単に分離できないのです。

【為末】反証可能性があるかどうかは一つの基準になるかもしれませんね。コロナの場合は「計算式が間違っていた」と言う人が出てきたけれども、シャーマンに「違った」と言う人は出てきにくいのではないですか。

【磯野】そうですね。ただ、コロナ禍の場合も検証は数年遅れて出てきたので、それまでは「そうなんだ」と信じていたということですよね。その反証を今でも知らない人もいるでしょう。

 

「各自に判断が委ねられる」ことの恐ろしさ

【先崎】象徴にしても、物語にしても、集合的無意識というか、聞きたいことに言葉を与えた瞬間に着火するのだと思います。さきほどの母原病の話でも、日本では摂食障害は母親が原因で、シンガポールでは欧米化が原因と言っていたけれども、それぞれの国で聞きたいことが違っていたということでしょうね。

当時の日本の社会がそういう構造だったから、それに対して「これが原因だろう」という言葉を与えたことが、この本が売れた理由だったのではないでしょうか。日本とは異なる共同幻想で生きているシンガポールでは、別の物語に着火した。

東日本大震災の原発事故の時も同じ問題が露頭したと考えています。大学で教鞭をとっている専門家のなかにも、「原発によって日本社会は壊滅する!」と絶叫している先生がいましたし、原発事故からしばらくして、首都圏の浄水場でセシウムの値が基準を超えたとき、この水は子どもに飲ませてはいけないということでパニックになった。政府は大丈夫だと言ったのだけれどもそれを信じる人はほぼいませんでした。僕も当時福島県に住んでいて放射線のデータを見て自主避難しました。

要は、政府のお墨つきであるとか、辞書に書いてあるから正しい、ということが成り立たなければ、象徴が壊れるということです。そうなったら、判断は各自に委ねられる。怖いと思ってデータを見た人は怖いから逃げる。それを見て他の人も逃げ出すので、社会が秩序を失っていく。伝統的な社会においてはシャーマンや長老がその社会の最終担保を担っていて、その人の言葉や価値観が信頼されている限りその社会はもちこたえる。

現代は科学者がシャーマン的な役割を果たしていますが、それぞれが違うことを言うのでかえって分断をまねく。社会がある種の共同幻想を持つことによっておかしくなる時もあるし、それによって秩序が保たれている面もあるのです。

【為末】複数のシャーマンがいる状態というのは面白いですね。象徴をみんなが信じているので秩序が保たれているというのと、真実をみんなで追及しようして無秩序になるのと、どっちの方がよい社会だと思いますか。通貨が信じられなくなるというのは前者から後者への動きですね。

【先崎】そうですね。今のアメリカの凋落は、基準通貨としてのドルを守る役割を、アメリカ自身が放棄しつつあることが背景にあります。100年前は、基軸通貨だったポンドが凋落してドルに代ったときに社会混乱が生まれ、戦争が起きた。いまはアメリカが基軸通貨としてのドルを放棄し始めているので、戦争になるかもしれないという経済学者もいます。基軸通貨もまた、共同幻想の一つなのです。

【為末】でも共同幻想を権力者側がうまく使ってみんなを統治するパターンもあります。

【先崎】まさにそうですね。それが共同幻想にはいいところと悪いところがあるという話につながるわけです。磯野さんがいわれた行為遂行性という概念がありましたよね。看護師が服装を着たら看護師らしくしっかりしてくる、という話です。これはポジティブな話ですが、逆から見ると全体主義的な臭いがしますよね。全体主義って必ず制服を作るわけですから。同じものに身を固めて、整然とした形式の中で歯車の一つとして同じ行為をする。典型的なのが行進ですね。

 

ポストモダンが常識まで解体してしまった

【磯野】いまのお話は、人類学的でいうと文化の話になると思います。たとえば「人の物を取っちゃいけません」という文化がある日本では、貴重品の落とし物の返却率がとても高い。当然のこととして共有しているからこそ、いちいち決まりとして文字にしなくても、文化で担保されている。でもそれが気持ち悪い方向に行くと全体主義的になる。ここは表裏一体ですよね。

私が人類学をやり始めた頃はちょうどポストモダンが流行っていて、とにかく全てを脱構築して解体するのがスカッとしてかっこいい、という時期でした。最近あの時代の弊害を本当に感じています。「何でも幻想と名指して壊せばいい」という風潮。

【先崎】あの頃の日本では権力的なものや、経済的な豊かさを実感することができたので、子供が大人の持つ権力を壊すという構図が成り立った。でも現在は、わざわざポストモダンなんて言わなくても、大人であれ価値基準であれ、社会の基軸が砂礫のように勝手に崩れていっている時代なのです。

象徴的なのはビットコインだと僕は考えています。最大の特徴は多中心性です。中央銀行という最終担保を置かずに、全員監視システムの中でやるという、究極の相対主義だからです。

さっき為末さんがドーピングを禁止する根拠は、本来は健康に悪からということだったけど、いまやそうではなくなったという話をされました。だけど何となく僕らの中には「持って生まれた体を健全に鍛えて、平等に戦うのが正しいよね」という考え方が残っていますよね。保守主義が好む言葉で言うと、これが「常識」になります。ドーピング禁止の多分最終担保になっているのは、この常識ではないかと。この「常識」を、そんなものは社会が規定した人為的な幻想にすぎない、だから破壊せよ!というのがポストモダンであり、相対主義になるわけです。

シリコンバレーのような常識をズラすことが<常識>になっているようなところでは「どこまで行けるかやってみようぜ」という話になる。それはもう、試合そのもの、ルールそのものを変更することと同じです。さっき言った、普通のセックスと強姦の境界が壊れるのとかと同じことだと思います。

 

なぜ人間は空虚さを埋めようとするのか

【磯野】多中心になっていく社会でもアルゴリズムを作っている人は背後にいるわけですよね。あらゆる制約から解放されるということは、ある意味で支配者になるということでもあるのではないですか。

【先崎】それはいわゆる「デジタル荘園」といわれる現象ですね。日本の歴史でいうと荘園ができる前は、中央集権的な律令国家体制でした。口分田から徴税し、法も整備して社会の隅々まで権力の目を行き届かせようとしていた時代なのですが、中央の力が弱くなってくると、権力の域外で勝手に土地を開墾して勢力を広げていく人たちが出てきた。今シリコンバレーで起きていることは、デジタルをつかってこれに近い状態をつくりだしている。ある種の治外法権です。でも注意したいのは、デジタル荘園の経営者は、ごく数人の天才たちであり、この天才たちが、国境を越えて世界中の隅々まで、それこそ僕たち一人ひとりの手にスマホをもたせて、デジタル小作人として、せっせと情報という税を納めているわけです。

【磯野】ということは、教育現場で1人1台デジタル端末を与えましょう、という話も絡んできますよね。

【先崎】おっしゃるとおりです。よく言われることですが、中国とかインドのほうがよほどデジタル化が進んでいて、それを国家が支配の道具にしいているのだけれども、その国家すらデジタル荘園から支配されているという構図です。

【為末】それを聞いて思い出したのですが、スポーツの競技場ってだいたいVIPルームがあるんです。そこに入るとクラブオーナー、IOCの委員や理事といった人たちが、スーツを着てシャンパンを飲みながら、我々アスリートが走っているのを見ているんですね。何かこの構造というのが、社会の中に何層にもわたってあるような。アスリートとしてパフォーマンスを権力者の前で披露するのはヒーロー的な側面はあって気持ちいい部分もありますが、表と裏を見るような感じもありました。なんだか自分が競走馬になったような感じもあって(笑)。

【高梨】私はお話を聞いていて、人間って空虚なのだなと改めて思いました。その空虚さに耐えられなくていびつな感じで自我を肥大させてしまうこともよくある話です。そもそも、いつ頃から人間は空虚さを埋めなくてはいけないと思い始めたのかなと考えると興味深いですね。

あるいはもともと空虚という感覚があったのか。将来の私たちも、自分を満たしたいという感覚を持ち続けるのか。あるいは、どこか別の星の生き物がいるとして彼らは満たされているのか、満たされていないのか。答えがあるわけではないですが、そういう想像は楽しいなと思いました。

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