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【22世紀の人間像研究会】人間の身体の「解釈」はどこまで変わっていくのか(2)

磯野真穂(人類学者/東京科学大学教授)

22世紀の人間像研究会

松下幸之助は終戦直後にPHP研究所を創設して以来、人間とは何かについて思索を重ね、その集大成ともいえる『人間を考える』(昭和47年〈1972年〉発刊)において、「人間には万物の王者たる優れた本質が与えられている」とする肯定的な人間観を提唱しました。

それから半世紀を経て、戦争や環境破壊、AIの進化など人類は新たな岐路に立っています。「22世紀の人間像研究会」では、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していきます。

今回からは、研究会のメンバーがそれぞれの専門分野から22世紀の人間像を考えるための視点を提供していきます。人類学者の磯野真穂さんには「身体性」という観点から、身体と象徴や儀式の関係についてお話しいただきます。2回にわたって掲載するこちらの議論は、そのあと展開される「対話」の出発点になります。

文化人類学では人間の身体を「象徴」と捉える見方があります。身体を何かの象徴としたときに、私たちの意識や行動はどのように変わるのでしょうか――。(構成:中嶋 愛)

 

身体は「象徴」である

人類学は身体を象徴であるととらえます。身体が、身体そのものとは別のものも表現しているということです。

私たちは、何を見てもそこに解釈を加えます。たとえば駅前で携帯を見ている人を見て「誰かを待っているのかな」と思ったりしますね。また、私がここまで走ってきて息をきらしているとしましょう。それを見て「遅刻しそうだったので走ってきたのかな」などと想像します。

こういうかたちで身体、もしくは生物学的な現象が象徴になっていきます。

この象徴が権力者に使われるようになると、「体毛がないということは、劣っているということだ」というような解釈につながり、植民地化を正当化する材料にもなるという話をしました。

象徴は「表現する」ものでもあります。たとえば「鳩は平和の象徴」というとき、鳩は平和を表現しています。同じものが地域によって異なるものを表現することもあります。

入道雲がたちのぼってゴロゴロ音がなってぴかっと光ったりすると、日本では「雷様が太鼓をたたいている」などといいます。それがヨーロッパに行くと「怒ったゼウスが雷を投げる」とか、「エルフが空の上で影を動かしている」といった表現になります。

象徴はまた、「生成する」ものでもあります。

たとえば役者がステージに立って衣装をまとい、小道具を手にすると、それらしく演じられるようになる。これを「象徴の行為遂行性」と呼びます。看護大学を出たばかりのおどおどした看護師がナース服を着て聴診器を持ち、血圧計を持つと、振る舞いそのものがしっかりしてくる、といったこともそうです。スキルが上がったわけでもないのに、ナースを象徴する服を着ただけでそれらしくなるということは実際にあるわけです。

身体が象徴的に使われるとき、そこには何かが作り出されています。ここでお話ししたいのが、「象徴操作と病からの回復」についてです。

私たちの身体に関する情報は、個人情報として医療従事者と患者の密室の空間の中に閉じ込められていますが、伝統的社会ではそうではありません。

 

ンデンブ医の治療

1967年にヴィクター・ターナーという有名な人類学者が書いた The Forest of Symbols: Aspects of Ndembu Ritualというエスノグラフィがあります。ターナーはアフリカの現在のザンビアに当たる地域のンデンブ族の集落をフィールドとしていました。

その本の中に、動悸と背中の激痛と衰弱に苦しむカマハサニという男性が、集落のシャーマンが取り計らう儀式を通じて回復するという話が登場します。

カマハサニは、集落の住民たちが自分に敵意を抱いていると信じ込んで社会生活の場から退いていました。この人は集落の人の悪口を言ったり、威張りちらしたりして酷い人なのですが、カマハサニ本人は「みんなから意地悪されている」と考え、体調不良もあるので引きこもっています。

ンデンブの儀式は、カマハサニと集落の者が一堂に介して行われます。その儀式の中で、カマハサニがいかに酷いか行いをしていたのかを集落の住民たちが語り、カマハサニ自身も集落への不満を語るという局面があります。いまの常識ではちょっと考えられません。

シャーマンの理解によると、カマハサニの病気は取り憑いた悪霊によるもの。ですからこの儀式は悪霊を取り払うために行われます。儀式の最後でシャーマンは、彼の歯を抜くような身振りをし、カマハサニは血を流します。すると周りで見ているものがワーッと盛り上がる。この儀式が終わると集落全体が安堵をしたような不思議な静けさに包まれていたそうです。この儀式を通じてカマハサニは体調の不良から解放され、そしてターナーがしばらく経って集落を訪ねた際も、集落になじんで、うまく暮らせていたそうです。

 

生物医学的根拠がなくても「回復」が成立する

患者の回復に生物医学的な根拠はないのですが、儀式によって仲たがいしている状態はとりあえず解決しています。儀式のなかでは互いに不満を言い合いますが、どちらか一方のせいにするのではなく、最終的には悪霊という神話的な存在に責任を押しつけるという方法で共同体内のいざこざを仲裁し、治療を行う。

ンデンブの儀式は、患者の状態を共同体の調和が乱された兆候と捉え、乱れた人々の関係性をよい方向に調整する機能があったと考えることができるでしょう。患者の体から血が出て、歯を抜くパフォーマンスは、共同体の不安定を作り出していた原因が取り除かれたことを象徴的に意味している。これを生物学的に「あなたはセロトニンが足りていない状態です」などと診断したとしても、なんの解決にもなりません。私たちの身体はそれが住まう社会と密接に結びついているのです。

 

現代の身体理解にも象徴操作が働いている

ンデンブの話は時代的にも地理的にも遠い話だと思いきや、意外とそうでもないんです。最近は糖質制限が一般的な健康管理の手法としてありますよね。糖質制限は、2009年にメタボ検診がはじまったことで一気に広まりました。特に40代以上の中高年男性がメタボ健診をきっかけに一気にダイエットに励むようになりました。

以前糖質制限をしている人にお話を聞いたとき、「糖質を食べると体が汚れた気がする」とおっしゃったのが印象的した。糖質は栄養学の中で作り出された、食べ物を捉えるための概念です。その概念にきれいも汚いもないでしょう。しかし糖質制限に熱心に励んでいる人は、パッケージの糖質何グラムというのを見ただけで恐怖心を感じ、それを体の中に入れると「汚れた」と感じてしまうのです。

循環器治療で使われる抗血栓薬についての医師と患者の語りもフィールドワークを行ったことがあるのですが、お医者さんからは「血液がサラサラになる」と説明されることが多いこのお薬、薬理学的に見ると血液をサラサラにしてはいないのです。血液の凝固因子の働きを抑えている薬なので、血液がサラサラになるというよりは、出血を起こしやすくしているという方が、薬理学的には正しい。しかしこれを「血液サラサラ」と表現し直すだけで、患者はこの薬をより受け入れやすくなるのです。

これが集合的に起こったのがコロナワクチンです。日本はこれまでワクチンの副反応にきわめて敏感な国でしたが、コロナワクチンに関しては、39度とか40度の高熱が出ても、数日間体調が悪くなっても「これは打ったほうがいい」と大半が受け入れました。「熱が出るのは若い証拠だ」といういま考えると笑ってしまうような話も雑談の中でなされました。

一見すこぶる科学的に見える薬品であっても、その表現のされ方で、私たちがそれに向き合ったり、体に取り入れたりする際の身体感覚が変わるのです。

 

身体変工マーケットはどこまで拡大するのか

これまでの議論を踏まえた上で、身体変工のマーケットの拡大はどこまで続き、どうなるのかを考える意義はあるでしょう。

電車のなかの宣伝でも、最近は男性専用の美容クリニックをよく見かけるようになりました。ある美容クリニックのコピーには、「超えるのは敵ではなくこれまでの自分」「進化し続けるために男を磨く」「勝つこと以上に大事なことは、理想の自分を追い求めること」「あなたのピークはそこじゃない」などとありました。医療技術を使って男性が美を追い求めることは、恥ずかしいことでもなんでもなく、むしろ男性としての強さを磨く方法であるというコピーが流されているわけです。

身体変工のマーケットは、従来の女性だけでなく、男性、子どもととどまるところなく広がっており、そして変工を加える場所は、遺伝子のレベルまで細分化されていっています。このような身体がどのように解釈され、表現され、私たちの身体感覚を変化させるのかをつぶさに見ていくことは、22世紀の人間像を考える際の一つの視座と言えるでしょう。

 

自分を「歴史に位置づける」という行為

身体を考えたり、いじったり、考えたりすることは実は、自分自身を何かに位置付ける作業であり、それがどのように何と繋がっているのかを見ることで、それぞれの身体が住まう社会の状況を分析することができます。

たとえば先崎彰容さんが書かれた評伝『本居宣長』(新潮社、2024年)では、本居宣長がアイデンティティクライシスに陥ったとき、日本の古代まで戻って「自分は何者か」を探そうとする様子が丁寧に描かれています。本居の場合、この個人的な試みが国学という学問体系の創出につながっていったわけです。これは最近中島岳志さんの書かれた『縄文』(太田出版、2025年)という本にも共通するところがあります。これは縄文に自分の起源を見出したい人たちの話なのですが、面白いのは、縄文左派と縄文右派に分かれるということです。しかも本居のように、文献を辿ったり、詳細を読み込んだりして歴史の古層を丁寧にたどり着くというよりは、縄文にロマンティシズムを感じ取り、それぞれにとって都合のいい物語を作り、それによって自分の原点を確立しようとしていることです。左派と右派は政治的には相入れないはず。それなのに、いずれも縄文に戻ってもっともらしい起源の物語を作り上げていることが興味深い。ただいずれも共通するのは自分の外部に自己を求めようとしている点です。

他方、このような外部を見出さない自分探しもあります。最近「孤独がいい」「1人でいい」というメッセージを発するドラマが大人気です。『孤独のグルメ』『ソロ活女子のススメ』などいろいろありますが、これらドラマの主人公は、外部に自分の起源を探そうとしない。これらドラマの主人公は大体、食べています。食べてその感覚を味わうことで、自分と向き合う。だから話はいつも、食と周りにいる数名で完結する。自分を自分の感覚の中に見出そうとするこのやり方は、歴史の中に自分を位置付けるやり方と比べるとかなり射程が短いと言えるでしょう。これは個人主義が進んだ現代社会に特徴的な一つの自分探しの方法であると思われます。

これは近年急速にマーケットを広げている美容整形の文脈ともつながります。美容外科のサイトを見ると、たとえば鼻の整形だけでも十何種類もパターンがあります。マーケットが作り出した美しさの基準の中に、自分を位置付け、それにより自分を見出す。自分が何者であるかがマーケットの価値観で決められてしまう。先に紹介したドラマが人気を得るのは、このようなマーケットの価値観に疲れてしまった人たちを癒す物語なのではないでしょうか。

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