2026年02月27日 公開

量子コンピュータの革新は、産業や社会に計り知れない変化をもたらしている。しかし、その一方で、技術の優位性を巡る国際競争は激化し、日本の立ち位置が問われる時期に差し掛かっている。
★本論稿は、意見集約プラットフォーム「Surfvote」と連動しています。
※本稿は、『Voice』2026年1月号より加筆・編集した内容をお届けします。
現代文明の基盤であるデジタル社会は、半導体技術の驚異的なスピードでの進歩のうえに成り立ってきた。しかし、その進歩も物理的な限界を迎えつつある。
この閉塞感を根本から打ち破り、計算のあり方を根本から変える可能性を秘めているのが、「量子コンピュータ」である。これは、従来型のコンピュータとはまったく異なる動作原理を用い、計算能力に桁違いの飛躍をもたらす技術である。結果として、特定の問題に対し従来のスーパーコンピュータが数千年を要する計算を、わずか数秒で解くことができると期待されている。
この飛躍的な計算能力は、単なる技術革新に留まらず、我々の生活や社会に多大な恩恵をもたらす力となり得る。医療分野では、患者一人ひとりの体質や病状に合わせたオーダーメイド医療や、アルツハイマー病など難病の克服に道を開く可能性がある。環境・エネルギー分野では、再生可能エネルギーの不安定さを解消する究極のバッテリー技術や、二酸化炭素を資源に変える新素材の開発が期待される。
さらには、世界的な金融危機を未然に予測し、社会全体の物流やエネルギー網を最適化するなど、社会インフラをより賢く強靱にすることにも貢献し得る。すなわち、量子コンピュータは既存産業を根底から覆す「ゲームチェンジャー」となる。また、現在急速な発展を遂げているAI分野においても、量子計算がその進化を更に加速させると期待されている。
同時に、安全保障面でも重大な影響をもたらす。現在のインターネット社会は、従来型のコンピュータでは「解読が事実上不可能」とされる高度な暗号技術によって通信の安全性が担保されている。しかし、実用的な量子コンピュータはこれを容易に解読し、暗号を無力化する能力をもつとされる。これは、国家の機密情報、金融取引、重要インフラ等が重大な危険に晒されることを意味する。
各国はこの技術の戦略的重要性を認識し、国家の威信をかけた「量子覇権競争」に突入している。これは単なる企業間の技術開発競争ではなく、未来の経済と安全保障の根幹を自国のコントロール下に置くことができるか否かを賭けた、「量子主権」を巡る国家間の総力戦である。
この覇権競争をさらに複雑にしているのが、技術的な不確実性である。量子コンピュータの実現方式には「超電導」「イオントラップ」「中性原子」「光量子」など複数の原理が乱立し、現時点ではどの方式が最終的に主流となるか定まっていない。そのため、各国は「どの技術方式に国家リソースを賭けるか」という巨大な戦略的リスクを抱えながら、開発競争を進めている。
米国は、政府と民間が一体となった「国家総力戦」を展開している。政府は2018年に「国家量子イニシアティブ法」を制定し、公的資金を投入しているが、米国モデルの真の強みは、Google、IBM、Microsoft、Amazon、Intelといった巨大IT企業による民間投資にある。彼らは政府予算を凌駕する数千億円から1兆円規模の資金を投じ、基礎研究からクラウドサービスを通じた実用化まで一気通貫で進め、デファクトスタンダードを確立しつつある。
最近では、AI半導体で圧倒的シェアを握るNVIDIAも、AI半導体と量子コンピュータを接続するシステムを発表するなど、本格参入を表明している。これら巨大IT企業に加え、IonQやRigetti Computing、PsiQuantumといった新興ベンチャーが最先端の基礎研究を迅速に事業化することで、米国の競争力を一層強固にしている。
中国は、量子技術を「国家事業」として最重要課題に位置づけ、凄まじい規模の投資を行なっている。その政府投資額は1兆円を超え、日本の20倍以上に達するとも言われる。中国はとくに、絶対に盗聴・解読が不可能な「量子通信」の分野で世界をリードしている。これは暗号解読の脅威を直接的に反映した国家戦略と言える。
注目すべきは知財戦略であり、量子技術関連の公開特許出願数で中国は米国を上回り世界トップとなっている。量・質ともに世界を席巻しようとする中国の国家戦略は、米国にとって最大の脅威であり、日本にとってはそれ以上に深刻な脅威である。
米中二強を追うかたちで、欧州、インド、中東諸国等も国家戦略として量子開発に巨額の投資を始めている。EUが今年7月に公表した「欧州量子戦略」では、EUと加盟国が過去5年間で量子技術に2兆円以上を投資したとされる。更に2030年までに欧州が量子技術分野のグローバルリーダーとなることを目標に、最大約540億円の公的資金を投じて6つの量子チップ試作ラインを設置する。
インドも2023年に「国家量子ミッション」を承認し、8年間で約1000億円規模の予算を投じて量子コンピュータと量子通信ネットワークの開発を急ぐ。更にアラブ首長国連邦やサウジアラビアといった中東諸国は、豊富な資金力を背景に、世界中の有力ベンチャーと次々に提携し、最先端技術の「ハブ」としての地位を確立しようとしている。
これら世界の動向に対し、日本にも世界レベルの多様なプレイヤーと技術の蓄積が存在している。
前項で述べた複数の実現方式のうち、超電導方式では理化学研究所が国産初号機を稼働させ、富士通と大阪大学も連携し独自の「スターアーキテクチャ」の確立をめざしている。光量子方式では、NTTが長年の研究で世界をリードしている。中性原子方式では、北川拓也氏がPresidentを務める米国のQuEra Computingが、産業技術総合研究所へのマシン導入などを通じて、日本での実用化を推進している。
さらに、日本は部品のサプライチェーンにおいても強みをもつ。量子コンピュータは、極めて高度な技術力が要求される部品の集合体である。正確な計算を行なうためには装置を超低温状態に維持する必要があるなど、部品に求められる性能は通常の環境下と大きく異なるが、日本にはこれらの特殊な要求に応えられる高い技術力をもつ企業が数多く存在する。
このように個々のプレイヤーは奮闘しているものの、国家としての戦略、とくにリソースの投入量において、決定的な差をつけられている。
米中が年間数千億円、あるいは数兆円規模の投資で競い合うなか、日本の量子分野への政府関連予算は、その数分の1、あるいは10分の1にも満たない。開発に必要な装置、人員、試行錯誤の回数において米中と圧倒的な物量差に直面し、その不足はハードウェア開発の「周回遅れ」に直結する。
このまま日本が量子コンピュータの開発競争に敗北することは、経済と安全保障の基幹インフラを他国に依存する「量子敗戦国家」化にほかならず、その損失は計り知れない。
(1) 経済の海外依存
将来、あらゆる産業の中核プロセスが量子コンピュータ上で行なわれるようになったとき、計算プラットフォームをすべて海外企業に依存すれば、日本企業は高額な「利用料」を支払い続けるだけの存在となる。これは、かつてOSをMicrosoftに、検索エンジンをGoogleに、クラウドをAWSに握られた構図の延長線上にあり、経済の海外依存をさらに深刻化させる。
(2) 安全保障の脆弱化
これが最も直接的な脅威である。実用的な量子コンピュータは現在の公開鍵暗号を無力化する。問題は未来のコンピュータが「未来」の暗号を破るだけではないことだ。
「Harvest Now, Decrypt Later(いまは収穫し、あとで解読する)」という言葉に象徴されるように、敵対国は「いま」この瞬間も、日本の外交、防衛、産業に関わる暗号化された機密情報を傍受・蓄積し続けている。そして「未来」に量子コンピュータが完成した時点で、それらの情報を遡ってすべて解読するのである。
この脅威に対抗する「耐量子計算機暗号(PQC)」や「量子鍵配送(QKD)」といった新技術の開発・実装もまた、高度な量子技術がなければ行なえない。自国の情報を自国の技術で守れない、安全保障上の深刻な脆弱性を抱える状態は、国家主権を維持できているとは言えない。
(3) 基礎科学研究の遅れ
物理学、化学、生物学、宇宙科学といった基礎科学の最先端は、いまや高度な計算機シミュレーションなしには成り立たない。量子コンピュータはそのシミュレーションの精度と規模を格段に引き上げる。この最先端の計算基盤をもたない国は、基礎科学研究においても他国の後塵を拝することになる。
このような危機的状況を直視し、日本が再び技術立国としての地位を取り戻す道筋として、ハードウェア、ソフトウェア、運用人材までを自国で揃え、技術的自律性を確保する「ソブリン量子コンピュータ」の確立こそ、日本がとるべき最重要の国家戦略である。
日本の量子コンピュータ開発の遅れは、国家戦略の根幹にある構造的欠陥に起因している。
(1) 戦略なき「選択と集中」の罠
日本の科学技術政策は2000年代以降、限られたリソースを有効活用するため、「選択と集中」を基本方針としてきた。その思想は現在の「科学技術・イノベーション基本計画」や「統合イノベーション戦略」にも色濃く受け継がれており、そのなかで「量子技術」は、AIや半導体と並ぶ最重要の「選択」分野として位置づけられている。
しかし、これが機能不全に陥る原因となっている。第一に、「集中」させるべき投資額が絶対的に不足している点だ。これはすでに述べたとおりである。第二に、その限られた予算さえも国内で「分散」配分している点だ。日本は、複数ある実現方式のすべてに対して予算を薄く広く配分する投資に終始している。これでは、どの方式も世界と戦えるだけの技術水準に達することができない。
(2) 深刻な「量子人材」の枯渇
「ソブリン量子コンピュータ」を支えるエコシステムの核は「人材」だが、日本は最も深刻な危機に瀕している。
第一の側面は、「量」の不足、すなわち専門人材の育成基盤が極めて脆弱な点だ。量子コンピュータに必要な「量子力学」と「情報科学」の双方を体系的に学べるカリキュラムをもつ大学・大学院はごくわずかである。近年、いくつかの大学で学際的なプログラムや学科がようやく設立され始めたが、そこから輩出される人材は年間数十人規模に過ぎず、国家的な需要を満たすには不十分である。
第二の側面は、「質」の不足、すなわちトップ人材の「頭脳流出」だ。国内で育った数少ない優秀な研究者や学生が、国内に留まらない。米中の巨大IT企業は、量子分野のトップ研究者や優秀な博士号取得者に対し、日本の大学や研究機関、国内企業が提示する給与の数倍から10倍以上の報酬と、潤沢な研究予算を提示する。
優秀な学生にとって、自らの能力を最大限に活かし、正当な評価を得て最先端の研究に打ち込むためのキャリアパスは、残念ながら国内ではなく「海外の巨大IT企業への就職」が最適解となっている。結果として、日本は税金を投じて育成した最高の人材を、競争相手である海外企業に無償で提供し続けているという、極めて不合理な構造になっている。
(3) 縦割り行政と非効率な実行体制
前述した2つの課題をさらに深刻にしているのが、実行体制の構造的欠陥である。米中が「国家総力戦」を戦うなか、日本は強力な司令塔が不在のまま、伝統的な「縦割り行政」によって貴重なリソースを非効率に運用している。
具体的には、量子関連の予算と権限が、基礎研究を担う文部科学省、産業応用を担う経済産業省、通信・暗号を担う総務省などに完全に分散している。国家目標の達成よりも省庁間の縄張り意識や予算配分が優先されかねないこの体制こそが、「ソブリン量子コンピュータ」実現の最大の障壁の一つである。
「量子敗戦国家」という最悪の未来を回避するために、日本は国家戦略として「ソブリン量子コンピュータ」の確立を最優先課題に設定し、以下の4つの柱を早急に、かつ同時に実行すべきと考える。
(1) 異次元の国家予算の確保と長期的コミットメント
従来の数%、数十%の予算増額では、もはや周回遅れを挽回できない。米中に匹敵するレベル、すなわち「最低でも10年間で数兆円」規模の国家予算を確保し、複数年度にわたる継続的支援をコミットする必要がある。「ソブリン量子コンピュータ」の確立は、将来の数兆円、数十兆円規模の経済的利益と国家安全保障への「投資」であるという国民的コンセンサスを形成し、財源を捻出すべきだ。
(2) 量子人材育成計画
量子エコシステムの基盤である人材問題の抜本的解決のため、大規模な量子ネイティブ人材育成計画を策定する。まず、政府と企業が協力して、世界トップクラスの研究者に対し海外IT企業を凌駕する報酬と研究環境を保証し、戦略的に招聘する。また、大学・大学院の教育において、物理と情報の両方を学ぶカリキュラムを標準化する。更に、既存のエンジニアや研究者に対する量子技術の大規模な再教育プログラムも国の支援の下で展開する。
(3) 国家量子技術司令塔の設置
「縦割り行政」の弊害を打破するため、強力な権限をもつ「司令塔」を設置する。この組織は、各省庁に分散した量子関連の予算と権限を一元的に掌握し、「ソブリン量子コンピュータ」戦略の策定から実行までを担う。米国のDARPA(国防高等研究計画局)のように、リスクをとってスピード感ある予算執行と規制改革を断行できる組織でなければならない。
(4) 官民一体の技術開発
前項で提示した司令塔の指揮の下、「ソブリン量子コンピュータ」実現のエンジンとなるのが官民連携の研究開発組織だ。ここで範とすべきは、1980年代に官民が結集し、米国を凌駕する半導体技術基盤を確立した「超LSI技術研究組合」の成功モデルである。当時の成功の鍵は、日立、NEC、富士通といったデバイスメーカー群だけでなく、関連する製造装置メーカーや材料メーカーといったサプライチェーン全体を巻き込み、オールジャパン体制で共通基盤技術を開発した点にある。
量子コンピュータもまた、日本が強みをもつ高性能な部品・装置の集合体だ。設立すべき組合は、ハードウェア開発企業、ソフトウェア企業、ユーザー企業、大学・国立研究所に加え、日本の強みである部品・装置メーカーを中核に据えることで、日本の限られたリソースを真に「集中」させ、サプライチェーン全体を国内で完結させる、自立した「ソブリン量子コンピュータ」のエコシステムを築くべきである。
ただし、この組合の設立にあたっては、過去の成功体験のみに頼ることは危険だ。1990年代以降の技術・人材流出、メモリ市場での韓国や台湾への敗北、水平分業モデルへの転換失敗といった「半導体敗戦」の反省を活かさなければならない。すなわち、共通基盤技術の開発で終わるのではなく、その技術をいかにして持続的な国際競争力とビジネスに結びつけるかという市場戦略までを、官民が一体となって共有する覚悟が求められる。
【小池千万人(こいけ・ちまと)】
富士通フューチャースタディーズ・センター主任研究員。東京工業大学大学院理工学研究科集積システム専攻修士課程修了、修士(工学)。2007年、株式会社富士通研究所に入社、無線通信システム(4G/5G)の研究開発に従事。2015年、富士通株式会社知的財産部門に異動、技術広報・学会発表支援等に従事したのち、2022年7月より現職。国際情勢分野の調査・研究を担当している。
更新:02月27日 00:05