私の覚えた『論語』には、人間性の抑圧や人間の欲望の否定を唱える言葉は何一つなければ、ましてや女性の「守節」や「殉死」を奨励するような表現はどこにも見当たらない。
そのかわりに、孔子が『論語』のなかで盛んに語っているのは「愛」(仁者愛人)であり、「恕(よ)」(思いやりの心)であり、親の気持ちを大事する意味での「孝」なのである。
『論語』はたしかにさまざまな場面で「礼」を語り、「礼」を大事にしている。しかし、『論語』の語る礼はどう考えても、礼教が人間性や人間的欲望の抑制に使うような厳しい社会規範としての「礼」とはまったく異なる。
『論語』の語る「礼」とは要するに、相手のことを心から大事にする意味での「礼」であって、人間関係を穏やかにするためのものである。
そこには、人間的温かみがありこそすれ、礼教の唱える人間抑圧の匂いはいっさいない。後世の礼教の残酷さ、冷たさと比べれば、『論語』から感じられるのは、むしろ優しさと温かさである。『論語』と礼教とのあいだにはどう考えても、何の共通点もないはずである。
そして、『論語』と礼教とはまったく共通点がないのであれば、私自身が以前から感じていたことはやはり正しい、と思った。
つまり、『論語』が礼教と何の共通点もないのと同じように、『論語』はそもそも儒教とは何の関係もなく、孔子は別に儒教の創始者でもない、ということである。
更新:11月22日 00:05