
人間は、自分の党派性に従った推論をする生き物だ。
党派への帰属意識が現実の認知を歪め、敵対的党派が振りまく陰謀論には鋭い目を光らせることはできても、自分の党派が繰り出す陰謀論や、自分の考えに合致した陰謀論に対して、人は驚くほど無防備なのだ。
そう語るのは、EBPM(Evidence Based Policy Making、エビデンスに基づく政策形成)を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏である。
本稿では、その杉谷氏に真実とフェイク、エビデンスとナラティブに向き合う姿勢について解説して頂く。
※本稿は、杉谷和哉著『エビデンスの罠』(PHP新書)から、一部を抜粋・編集したものです。
フェイクが広がる時代では、客観的な証拠やデータが必要で、「ファクトチェック」が重要である。しかし、それには時間を要する。「早押しクイズ」のように、ありとあらゆる事象に対して何かしらのコメントやレスポンスを即座に求められる時代にあっては、フェイクを吟味する時間もない。
早急に答えを出すのではない、慣れ親しんだナラティヴに頼って決まりきった答えを出すのでもない、自分の考えに合致したエビデンスに飛びつくのでもない、曖昧な状態、答えを留保した状態に耐え続ける、「ネガティヴ・ケイパビリティ」が必要とされている。
しかし、こうした姿勢は「どっちもどっちだ」という、相対主義につながりかねない点にも注意が必要だ。「中立であることは、〇〇の味方をしているのと同じだ」というレトリックがしばしSNS上で見受けられるが、これはあながち間違いではない。結局のところ、イシューごとに判断を下していくしかないのだが、こと政治においては、その判断が難しいこともある。既存の情報を丁寧に吟味したうえで、自分なりの決断を積み重ねていき、誤った判断をした時にはそれを反省するといった営為が望ましい。そしてそれは、口で言うほど簡単ではないのである。
そのような姿勢は当然、ナラティヴを前にした場合にも求められる。というより、ナラティヴのほうが厄介ですらある。ナラティヴは我々の心を揺さぶり、時にエビデンスよりも高いインパクトをもって社会を揺るがす。ビッグデータが隆盛を極める時代において、ナラティヴは一見すると劣勢に見えるかもしれないが、陰謀論の台頭を見れば明らかなように、実際にはそう単純な話ではない。むしろ、これらは時に結託して大きな影響力を得ることもあるのだ。
噓やごまかしがまかり通る時代において人々は、何が真実で何がフェイクなのかの判断基準を欲する。
厄介なのは、何が真実で何がフェイクなのか、その境目がはっきりしていない場合が多いということだ。ポパーの反証主義もそうだったが、これまでも多くの理論家たちが、科学と非科学の線引きを試みてきた。だが、いまだに万能で明瞭な線引きを作ることには成功していない。
そもそも、政治や政策に関して言えば、いわゆるエビデンスやデータだけで、すべての判断が可能になるわけではない。エビデンスやデータに基づいて何かしらの意志決定を下すには、解釈の枠組みが必要だからだ。
大事なのは、その解釈の枠組みの背景にある価値観である。データやエビデンスは、限定的とはいえ、現実を反映したものだ。だが、それだけをもって政策判断を下すことはできない。その現実が好ましいものなのか、そうでないのかを判断する基準が必要である。それこそが価値に他ならない。
世に溢れるフェイクに我々が踊らされている理由は、よく言われるように、偽動画が巧妙になったからでも、市民教育に欠陥があるからでもない。正確に言えば、それらはいくつもある理由のうちの一つでしかない。より重要なのは、我々がどのような社会を望むのか、政治にいったい何を期待し、政策を通じてどのような好ましい現実を生み出そうとするのかといった、価値にまつわる議論が不足しているからである。
ここで言う価値とは、党派性に基づいた、和解の余地のない議論とは別である。党派性もそれぞれの価値観に基づいてはいるが、価値はもう少し幅広い意味合いを含意する。どのような社会を望むかと言った理想像を考えるうえでは、必ずしもキチンとした世界観を伴っていなくてもよい。それは時に揺れ動くもので、人との議論を経て変容することもある。
これに対して党派性は、そうした柔軟性をあまり持っておらず、「分断」を引き起こす要因と目される。こういった党派性は、政治を語るうえで必要な面もあるし、無くそうと思って無くせるものでもない。だが、我々は政治的な価値を論じるにあたって、こうした語り口とは異なったありようを模索することもできるはずである。
政策的な判断には、当然のことながら客観的な情報が必要不可欠だ。だが、この前提が不幸にも、エビデンスだけで政策が決められるという勘違いを生み出した。この勘違いはさらに、ある特定の情報を得さえすれば、誰しもが同じ発想になるに違いないといった思い上がりさえも蔓延させている。
政策をめぐる論争が、お互いに都合のいい情報を投げつけあうだけの不毛な議論に終始してしまう原因の一端には、これらの勘違いや思い上がりがあるのではないだろうか。溢れるフェイクに翻弄される我々は、ものの見事に足をすくわれていると言わなければならない。
我々は思い切って、次のように断言してしまってすらよいように思われる。真実とフェイクの間には、もはやそれほど大きな違いはない、と。
真実であろうとフェイクであろうと、エビデンスであろうとナラティヴであろうと、我々がいかなる社会を求め、他者とどのような関係を結びたいのかといった前提がなければ、それらを活用し、自分の主張を展開することなどできない。
これは政策決定においても同様だ。エビデンスの活用、客観的な情報に依拠した方針、これらの重要さは論を俟たないが、実際にはどのような局面で、どういった情報を重視するかといった判断が常に求められる。では、それらの判断は何によって可能になるのだろうか?
それを可能にするものの一つが、「賢慮」というべきものである。原型は哲学者、アリストテレスが提唱したもので、状況に応じて何が「善」であるかを判断するための能力のことを言う。政策判断の基盤となるべきなのが、こうした「賢慮」に他ならない。エビデンスであろうとナラティヴであろうと、「賢慮」を欠いた状態では適切な活用などできるはずもない。これまで見てきた社会の混迷や、我々の動揺は、こうした「賢慮」が社会から失われたために引き起こされている。
ならば、いかにして「賢慮」を社会に備えさせることが可能なのだろうか。方途はいくつもある。教育改革や、官僚制の制度設計、参加型民主主義の導入などである。いずれも有用と言えるが、より根本的な視座も必要である。
ここで考えるべきなのは、賢慮の前提にある想定だ。それは、何が「善き社会」なのかをめぐる構想である。ここにおける「善き社会」とは、それこそ計量可能なエビデンスだけで語れるものではない。我々の社会が依って立つ文化や伝統も関係してくるし、倫理や道徳なども、「善き社会」を構成する要素に含まれる。
思えば、公共政策をめぐる評価基準はしばしば、「効率性」や「有効性」といった、数値化が可能で、比較考慮できる情報ばかりに偏っている。だが、我々の社会がそうした情報だけで成立していない以上、そのような基準のみで政策を考えていても、ある種の限界に直面する。こうした基準は、複雑な社会を構成するごく一部の側面に過ぎないからだ。
このような認識に立脚し、「賢慮」を求めることによって我々ははじめて、エビデンスやナラティヴに向き合うことができる。「賢慮」が伴った社会においては、フェイクによる必要以上の揺動も起き得ないのではないだろうか。エビデンスとナラティヴに引き裂かれ、フェイクに怯える我々の現状は、この社会から賢慮が失われたことによって招来されたのだと言わなければならない。
更新:06月06日 00:05