2026年01月06日 公開

2022年度の学習到達度調査「PISA」で3分野とも1位となったシンガポール。実際にどのような教育システムがあるのか。BBC史上初の日本人プレゼンターで、シンガポールを拠点に活動する大井真理子氏が伝える。
※本稿は、『Voice』2025年12月号より抜粋・編集した内容をお届けします。
もうすぐ小学6年生になる長女がシンガポールの公立小学校に入学した約5年前、初めての週末に出された宿題への驚きをいまでも鮮明に覚えている。
まず全国の学校で使われている教育省認定のウェブサイトにログインし、パスワードを変更。その後、先生がアップロードして下さったパワーポイントプレゼンテーションをダウンロード。リストされている教室内での役割(黒板消し係、図書係など)のなかから自分がやりたいものを選び、その理由を6、7歳児自らタイプして提出して下さいというものだった。
「難しすぎない?」と心配する親を尻目に、大興奮で宿題をする娘の姿も目に焼き付いている。それまではコロナ禍の在宅授業以外でのiPadの使用を許していなかったため、彼女にとっては遊びの延長だったのだろう。いまでも自作の小説を書くのが大好きな娘が、生まれて初めて、自分の言葉で自分の気持ちを表現することの楽しさを知った瞬間だ。そして夫と私は、デジタルネイティブ世代のICT機器への対応力の高さを痛感させられた。
シンガポールの教育DXは、驚くほどのスピードで進む。前述の長女がプリスクールに入園した2015年当初は、ミルクを飲んだ時間などが手書きでノートに書き込まれていたが、数年後、ある日突然すべての連絡がアプリになった。日本だったら「スマホをもっていないご家庭は?」と議論になりそうだが、こちらでは話題にすらならなかった。シンガポール人の親御さんは「日本のやり方のほうが民主的だ」と言っていたが、これくらいトップダウンの勢いがないと、この小さい国の急成長は達成できなかったのかもしれないと思わされた経験の一つだ。

年少からスペリングテストに臨む(写真提供:筆者)
天然資源の少ないシンガポールは人材育成に熱心だ。学校は外国人が通うインターナショナルスクール(以下、インター)以外は公立で、シンガポール国民は政府の許可がない限りインターに通えない規則のため、ほぼ全員が無償の公立の学校に行き、貧富の差が原因で生まれがちな教育格差を防ごうとしている。
年少から英語と中国語のスペリングテストがあり、長女が5歳で「favourite」と書けるようになったときには心底驚いた。その娘が小学校高学年になり、イギリス人の夫が「これ中学か高校で習った記憶がある」というほど難易度の高い内容を学校で学んでいる。16歳までは日本で教育を受けた私は、もはや宿題を手伝うこともできなくなった(私は高二から英語を学んだため、小中学校で学んだ惑星や魚の名前は日本語でしかわからず、逆に大人になってから担当した経済報道の専門用語の日本語訳は、辞書で確認することも多い)。
インターに子どもを通わせるお友達は口を揃えて、「シンガポールの公立は勉強が大変だから」と言う。小6で受ける試験の結果で、国内の一流大学に進めるかどうかが決まってしまうなど、プレッシャーの多い環境だ。我が家の長女も来年小学校卒業試験(PSLE)を受けるが、英語、母国語、算数、科学の4教科の結果によって進学する中学校のコースが決まり、進学校に入れないと、大学に進める可能性が大幅に減り、専門学校にしか行けなくなる。
日本のように中学受験に失敗しても、大学受験で挽回できる機会はほぼないシステムのため、教育熱心な親御さんは、ほぼ毎日子どもを塾やお稽古に通わせている(母国語は、うちの子どもたちは中国語を選んでいるが、シンガポールの公用語であるマレー語、タミル語を母国語として選択することもできる)。試験の出来によっては進学できず、「特別教育学校」に進む可能性もある。規制がかかるため詳細は報道されないが、若者の死因の第1位は日本と同じく自殺だ。
しかしインターの学費は公立校の10倍近く、永住権をもっている我が家は「とりあえず公立の勉強についていけるか様子を見よう」と決心した。いまのところ、上の2人の子どもは楽しそうに通ってくれている。
シンガポールは、一部の学校で2005年にグローバル人材を育成するための教育プログラム・国際バカロレア(IB)を導入して以来、毎年世界の満点者の半数以上を輩出し、OECDが実施する15歳を対象とした学習到達度調査PISA(2022年度)で読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーの3分野すべてで世界1位となる「教育先進国」だ。
公立校に無償で通えるシンガポール国民と比較すれば高額とはいえ、毎月3万5000円ほどの学費で、英語と中国語でこれだけのレベルの教育を受けられるのは、我が家がシンガポールに残ろうと決めた理由の一つだ。
オーストラリアにて「EQの大切さがわかった」(写真提供:筆者)
その一方で、IQに焦点を当てすぎではないかと感じることも多々ある。世界ランキングでアジアトップクラスのシンガポール国立大学を卒業した学生と仕事で知り合うと、指示を出されたことは完璧にこなす一方で、はじめましての挨拶もままならなかったり、自身の想像力を使ってクリエイティブに考えてほしいと言うと戸惑う人も多い。普段の生活のなかでも、同じマンションに住むご近所さんたちにエレベーターで「おはようございます」と挨拶をしても、無視されることも珍しくない。
これが普通だとは思わせたくないと感じ、学校の春休みに上の2人をオーストラリアに連れて行った。私が16歳から約7年住み、日本やイギリスと比べてもEQが高く、フレンドリーな国民性だと私は思っている(もちろん個人の性格もあるが、私が夫を初めて実家に連れて行ったとき、母が「真理ちゃんのオーストラリア人の元彼は、ママのつくったご飯をWow, wonderful!! って大げさなほどに褒めてくれたけど、イギリス人の彼はNot badとしか言ってくれないのね」と悲しんでいた記憶がある)。
シドニーに到着した初日、娘は私の友人に借りたオーストラリア伝統の帽子をかぶり、みんなでオペラハウスに行った。見知らぬ人に、それも10人近くに、「Nice hat!」と声をかけられ、反応に困っていた長女。そしてその後、宿泊していたホテルの近くのお店で、私が学生時代に好きだったスナックなどを買いながら、初対面のオーナーさんと長々と話していると、息子にも「なんで知らない人とずっと話していたの? シンガポールじゃあんな風に話さないのに」と聞かれた。
「オーストラリアはみんなフレンドリーだよね」と言っても、いまいち納得していなかった2人。しかし翌朝、子どもたちだけで朝食を買いに行き、私が頼んだ飲み物と違うものを買ってきてしまったときに、彼らは大事なことに気づく。私が「値段は一緒だから、もう一度行って交換してもらって」と頼んでも、「絶対無理だよ、換えてくれるわけがない」と言う子どもたち。「とりあえず聞いてみて」と送り込んだ。
さすがEQ大国・オーストラリアである。「あったりまえだよ、その2つの飲み物は見た目は似ているけれど、全然味が違うんだよ! 換えていいよ。もう一本おまけしてあげるから、ママに持って帰ってあげな」と言われ、大興奮でホテルに帰ってきた子どもたち。「ママがいつも言っていたEQの大切さがわかった気がする」と言われたとき、私は思わずガッツポーズをしそうになった。
オーストラリア以外でEQが高い国民性と言えば、アメリカだろうか。ニュースを毎日読むようになり、銃犯罪の多さにショックを受けた長女は、アメリカの学校に行きたいとは言わないが、シンガポールでアメリカンスクールに通うお友達から聞いた興味深い話がある。
授業で「あなたが一番好きな人は誰?」と聞かれたそうだ。どこの国の学校でも聞かれそうな質問だ。日本やシンガポール、おそらくイギリスやオーストラリア育ちの場合、ほぼ全員、自分以外の人を答えるだろう。しかしアメリカンスクールの生徒の多くは「自分!」と答えたというのだ。
正直に言えば、20年のキャリアで知り合ったアメリカ人の同僚のなかには、「こんな片言の日本語しか話さないのに、なぜペラペラだと面接で言ったのだろう」と思うほど、自信過剰な人もいた。しかし自己犠牲が美徳とされる環境で育った私にとっては、目から鱗の教育の違いだった。
日本とイギリスのルーツをもつ3人の子どもたちを、なぜ母国のどちらかで育てないのか。もちろん幾度も検討したことはある。
まだ3歳だった長女が、シンガポールの建国記念日に国歌を完璧に歌い、国旗の絵を描いたことがある。「上手だね」と褒めたら、「だって私はシンガポール人だもん!」という返事が返ってきた。幼稚園で毎朝、シンガポール国旗を掲揚し、国歌を斉唱、その後、右手を胸に当てて国家への忠誠を示す「国民の宣誓」を誓っているのだから当然かもしれない。
「え? パパとママは?」と聞くと、「パパはイギリスの人、ママは日本の人」と言うのだ。興味本位で日本とイギリスの国旗と国歌を知っているか聞いてみたが、当然知るわけがない。そんな娘が小学生になり、歴史の授業で日本軍によるシンガポール侵略を学ぶ。私が事前に史実を説明し、学校の先生方がいまの世代には責任がないと教えて下さっても、長女は「申し訳ないことをしたと感じた」と泣いてしまったことがある。
私自身オーストラリアの学校に留学していたとはいえ、まだ幼い子どもが海外の公立校で教育を受けることの影響を、そのとき初めて考えさせられた。当然、シンガポールの学校では日本やイギリスの歴史は学んでこない。
自分のルーツを知るためにも、土曜日の日本語のレッスンだけでなく、日本の教育も経験してほしいと思い、シンガポールの学校の休みに東京の実家の近くの学校に通わせていただいたことがある。とくに日本の学校の給食と放課後の掃除、そして体育の授業をどうしても体験させたかったのだ。
なぜならこちらの学校では、食堂で自分の好きなものを買って食べられるため、好き嫌いを克服できないからだ。そして自分たちで教室を掃除しないうえに、我が家も含め、共働き家庭の多くは住み込みのヘルパーさんを毎月6万5000円の最低賃金で雇える環境を政府が整えているため、「掃除=誰かがやってくれる」と思って育ってほしくないという私の強い希望だ(家でのお皿洗いや片付けも必ず子どもたちにやらせてほしいと、私はヘルパーさんに頼んでいる)。
なぜ体育の授業? と思われる方もいらっしゃるかもしれない。シンガポールの学校では、成績表で評価されるのは前述のPSLEで評価される英語、母国語、算数、科学の4教科のみ。図工や体育の授業もあるものの、成績がつかないため、力を入れているとは言い難く、跳び箱や鉄棒の授業がない(親世代と比べると、近年は子どもたちへのプレッシャーを減らそうと、シンガポール政府がテストの数を減らしたと聞く。またオリンピック出場選手を増やそうと、全国の子どもたちの能力をまとめて審査するような会も行なわれている)。
一方でイギリスの教育で魅力的なのは、たとえ相手が先生でも、自分の意見と違ったら、きちんと議論をしようという教育だ。
長女がまだ小3だったとき、ロンドン本社への異動を検討し、日本人のママ友にイギリスの教育事情を聞いたことがある。これでもかというほど欠点をあげてくれたあと、「でも最近あった授業は、真理ちゃんが気に入るかも」と言われた。来週から食堂でのジュース販売が中止になったと仮定し、どう抗議するのか考えようというものだ。暴力は絶対にダメ。ポスターをつくるのか、平和的なデモをするのか、小学生が議論するのだ。シンガポールや、おそらく日本でも根強い「お上には逆らわない」教育とは正反対と言える。
実際、私が社内で応募した仕事に決まらず、再考してほしいとアピールした際、シンガポール育ちの長女に「ダメだよ、先生が、ママの場合は上司が決めたことに逆らっちゃいけないんだよ」と言われたことがある。先生の言ったことが絶対に正しいわけではないと話したが、おそらく彼女はいまでも先生に挑戦するようなことはしていない。
私が2006年にこちらに引っ越してから何度も、「日本もシンガポールの制度を真似すべきだ」という意見を読み聞きした。しかしシンガポールの人口は、東京の半分ほどの600万人。だからこそ可能なことも多い。
それと同時に、20年前には日本とほぼ同じか、肌感覚では日本以下くらいだったシンガポールの賃金は、いまや日本の2倍近いというデータもある。英語を公用語としたこの国でハイレベルな教育を受けて育った人材は、どんどん世界中の企業の管理職に就き活躍している。
子どもには子どもらしく、勉強ばかりでなくのびのびとした環境で育ってほしいという親としての気持ちもある一方で、シンガポールの教育格差を防ぐためのシステムや政府による幼いころから勉強が得意な子を最大限伸ばそうとする努力、そして働くお母さんの負担をできるだけ減らそうとする制度からは、日本も学べることがあると思う。
【大井真理子(おおい・まりこ)】
英国放送協会(BBC)の日本人初のプレゼンター。シンガポールを拠点に、2025年11月からYouTubeとBBC Soundsで放送を開始したアジアのニュースに特化したポッドキャスト「Asia Specific」のキャスターを担当している。06年に入社し、BBCニュースチャンネルでアジア時間朝のニュース番組「ニュースデイ」、「ビジネストゥデイ」の番組キャスターや特派員としてアジアや世界のニュースを世界に向けて報道してきた。
更新:01月09日 00:05