
二回目の大統領選に出馬したドナルド・トランプが選挙戦の最中、「移民が隣人のペットを食べている」などという発言をして批判されたが、意識的にせよ無意識的にせよ、トランプはナラティヴの力を最大限に活用して選挙戦を戦った。
フェイクに彩られたナラティヴを我々は簡単に受け入れるわけにはいかない。我々はナラティヴとエビデンスを駆使して他者を意のままに操ろうとする力に囲まれていることを、認識しておくに越したことはなさそうだ。
そう語るのは、EBPM(Evidence Based Policy Making、エビデンスに基づく政策形成)を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏である。
本稿では、その杉谷氏に政治的主張を補強するために使われる数字(エビデンス)について解説して頂く。
※本稿は、杉谷和哉著『エビデンスの罠』(PHP新書)から、一部を抜粋・編集したものです。
一般的に言って、党派性はエビデンスではなく価値に基づいている。伝統的な価値観を順守すべきと考える人は、それが社会にとって大事だと感じるからである。逆に、個々人の自由な選択を阻害したり、現代の価値観に照らして不適切と思われるような制度を温存したりするような価値観は、積極的に是正すべきと考える人もいる。そうした人々は、伝統的な価値観よりも重視すべきものがあると思っている。
この対立は今日における「右派」と「左派」の価値観に沿っている。そして、それぞれの陣営に立つ人々は、科学的な根拠にしたがった判断を下しているわけでは必ずしもない。そういう人も中にはいるだろうが、実際には各々が各々の価値観に則った上で立場を決めているはずであり、そこにエビデンスが介在する余地はわずかしかない。エビデンスに基づいた判断は今日、ありとあらゆる局面で推奨されているが、価値観に基づく党派的な判断はその埒外におかれている。
にもかかわらず、ある特定の政治的な立場を支持している人々はしばしば、自分たちの政治的主張について、エビデンスを持ち出して自らの立場を補強する。
女性の社会進出を支持する人々は、少子化や人口減少、経済成長の鈍化といった課題の原因を、それらの遅れにあると主張する。したがって、女性の社会進出の阻害は、何よりもまず人権の問題であるとともに、経済にも悪影響を及ぼす課題でもあると定義される。一連の営為は、自らの価値観の正しさを立証するにあたって、補強する論点として経済的な側面を提示することで、その立論の妥当性を高めようとしている試みだと解釈できる。
自分の政治的立場を補強するために、「エビデンス」を用いるスタイル自体は、昔から見られたものだ。だが、エビデンスとは無縁で存立しうる政治的な立場について、エビデンスを用いて相手を説得しようとする試みは、奇異であるとも言える。
ここから派生した政治スタイルを、筆者は「エビデンスに基づくポピュリズム」と呼んだ。これは、今や旧聞に属する2024年の東京都知事選における二人の候補、蓮舫と石丸伸二の政治スタイルが似ていることに着想を受けたものだ。
蓮舫と石丸が似ているなどと言うと、多くの人が疑念を抱くかもしれないが、ここで問題にしているのは、それぞれの政治家のイデオロギーや価値観ではなく、その政治スタイルである。
蓮舫は、民主党政権期の「事業仕分け」でその名を馳せた。数字を駆使し、投入された予算に対して成果が少ないのではないかと担当者を鋭く追及するさまで人気を博したのである。仕分けの様子はテレビで広く放映され、蓮舫は時の人となった。これに対して石丸もまた、知事時代に自分と対立する議員に対して数字を繰り出し、相手をやりこめている動画がネット上で多く再生されて人気を博した。このように、両者は似たような政治手法を駆使して話題を攫い、支持を増やした経緯がある。
その後、「石丸旋風」はあっという間に衰え、彼の作った政治団体も選挙で惨敗した。翻って蓮舫は、都知事選で味噌をつけたものの、ほどなくして参議院議員に復帰し、議員として精力的な活動を続けている。ここに両者の政治的な胆力の違いも見出せるが、本稿で注目したいのは、エビデンスに基づいて政敵をやり込めるありようが支持を集めた事実である。
ここに我々は、エビデンスとポピュリズムの融合を看取できる。ポピュリズムとは、政治指導者が人々の欲望に迎合し、敵と味方を峻別し、敵への苛烈な批判を通じて味方の結束を強めて支持を調達する政治スタイルを指す。
蓮舫と石丸のスタイルは、民意を集めるために数字を巧みに用いた点において共通しているのである。
政治に関心を抱く多くの人は、周りの人たちにも政治に関心を持っていてほしいと願っているだろう。だが、これにはある前提がついている。すなわち、「自分と同じような関心を持ってほしい」、「政治について関心を持った結果、自分と同じ考えに至ってほしい」、といった前提である。投票率がいくら向上したからと言って、自分が支持しない政党の得票率が向上すれば、それを喜ぶ人はいないだろう。人間は政治や社会について、他人にも自分と同じような考えに至ってほしいと考えて行動する生き物なのである。
この側面に注目すると、政治におけるエビデンスの重用の背景には、他者を説得したいという意図があるのだとわかる。誰もが納得できる数字データを出しさえすれば、相手は自分に同意し、自分と同じ立場に立ってくれるだろう、という期待が、エビデンスを用いて相手をやり込める態度にもつながる。そして、自分の党派を支持するようなデータを示したにもかかわらず、相手が自分と同じ立場に立たない時、「どこかからお金をもらっている」だとか、「陰謀によってコントロールされている」だとかいった邪推に至ってしまう。
数字そのものは客観的で、動かしようがないものに見える。だが、そもそもの集計の仕方に悪意があったり、数字の解釈が偏っていたりする場合も少なくない。数字があるからといって、万人が同じ結論に至るのは、ありえない想定なのである。
そもそも、上でも述べたように、政治的な価値観は、エビデンスに基づいていなくともよい。もちろん、個々の政策論や方針、価値観を支える要素については、正確な情報が求められるし、それをめぐる議論があってしかるべきだろう。だが、政治的な判断は、必ずしもエビデンスに基づいて行われるわけではない。
要するに、「自分と同じ情報を得れば、自分と同じような立場にみんななるハズだ」というのは、根拠のない思い上がりなのだ。そうした思い上がりを前提に、「お前は金をもらっているのか」などと言うのは、他者や社会に対する理解を欠いた態度である。エビデンスを用いることはもちろん大事なのだが、その濫用は、このような態度を助長しかねず、かえって問題の解決から遠ざかると言わざるを得ない。
だが、だからと言って「あなたはあなたの考えがあるのですね、私には私の考えがあります」だけで済ましてしまえばよいかというと、そうではない。その先にあるのは、相対主義の蔓延であり、ニヒリズムへの頽落である。そもそも、相手に自分と同じ立場に立ってほしい、そうではなくとも、それを理解してほしいと欲望することは、社会や政治における他者との関わりの第一歩である。それを否定してしまうと、他者に対して関わりや関心を持つことすらできない。
よって、ここでもなお我々は「あいだ」を行かなければならない。たとえ、相手が自分の提示した情報を認識したとしても、態度を変えることはないかもしれない。だが、それは自分と相手の間にある価値観の違いによるものかもしれない。そのような、自分にとっては受け入れ難いような他者が存在しているのが社会である。
陰謀論の根本的な問題は、そうした事実を隠蔽し、「自分と違う考えの人の背後には、何かしらの邪悪な意図があるに違いない」などと思わせることにある。これは、自らと相容れない他者がいるという事実に耐えられない人間が自らを守るために生み出す虚構に過ぎない。そのような虚構を排し、自分の考えとは違う人間が当たり前にいる現状を受け止め、そうした相容れない他者が隣り合う社会をどのように目指していくかが課題なのである。
更新:05月30日 00:05