
我々は「エビデンス」や「数字」を用いることで、社会やビジネスを合理化できると考えていたのに、その理想からは遥か遠いところに来てしまったようである。
そう語るのは、EBPM(Evidence Based Policy Making、エビデンスに基づく政策形成)を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏である。
本稿では、その杉谷氏に数字をめぐる悲喜劇を描出した多くの書籍の中から、『測りすぎ』について解説して頂く。
※本稿は、杉谷和哉著『エビデンスの罠』(PHP新書)から、一部を抜粋・編集したものです。
数値や指標を用いたマネジメントは、我々の社会を飛躍的に進歩させた。しかし、それは同時にさまざまな問題も引き起こしている。
こうした事態を活写した著作も、今や枚挙に暇がないほどだが、中でも有名な一冊は、『資本主義の思想史』(邦訳は東洋経済新報社より刊行)の著者であり、ヨーロッパ知性史を専門とするジェリー・Z・ミュラーによる『測りすぎ』(原題はThe Tyranny of Metrics、邦訳は『測りすぎ:なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』[みすず書房])である。
ミュラーはその著作において、テイラーの科学的管理法から始まり、「マクナマラの誤謬」に至る数値に振り回されて失敗した経緯を描出している。ミュラーによれば、測定の営為がこれほどまでに社会で影響力を保持するようになった背景には、「信頼」が関係している。
「信頼」の話に取り掛かる前に、アカウンタビリティの概念を確認する必要があるだろう。アカウンタビリティは、ある決定や行動に対して、それをなぜ行ったのかを説明させ、それが誤りだった場合には責任をとらせるという発想である。アカウンタビリティ自体は民主主義を強化し、よりよい政治や社会を生み出すために必要不可欠なものなのだが、これが誤った形で社会に実装されると、問題が起きる。
日本における政策評価の第一人者である山谷清志は、「アカウンタビリティのジレンマ」という概念を通じて、この点を説明している。アカウンタビリティのジレンマとは、アカウンタビリティの確保をやろうとすると、それに手間が取られて本業が疎かになる事態を指している。
たとえば、私たち大学教員は、自分たちの研究がいかに社会において必要なのか、成果はどれくらい上がったのかといったことを日々、報告する義務がある。また、研究費の適切な利用のための種々の研修も受ける必要があり、その量たるや膨大なものがある。いずれも不要であるとは言えない。だが、これらの作業が自己目的化すると、とにもかくにもうまくやり過ごすために「作業ゲー」を繰り返していくことになってしまう。
これは政策評価においても同様である。ほとんどの人が見ないし読まない評価資料が大量に積み上げられている事態は、評価業務がかえって本業を圧迫している点で、典型的な「アカウンタビリティのジレンマ」だと言えるだろう。
アカウンタビリティの追求による組織のパフォーマンスの低下が、いわゆる「測りすぎ」の弊害の一つである。ミュラーは、特に米国において、公共部門の効率性への不信感が高まり、透明性の徹底やアカウンタビリティの強化を求める動きが強まったと指摘する。政府や自治体がキチンと仕事をしているかを疑い、その監視を欠かさないというのは、民主主義社会における理想的な市民の姿で、決して責められるべきものではないのだが、その姿勢こそがアカウンタビリティのジレンマをもたらす。
アカウンタビリティのジレンマは、そもそも何のためにアカウンタビリティを確保するのか、どの程度の情報が必要なのかといった点の吟味が不十分なために起きる。その場しのぎの目標設定、形だけの情報公開といったことが、アカウンタビリティ確保のための際限ない作業を生み出すのである。いずれにせよ、ここでは、政府への厳しい目線が数字による管理の導入を後押ししたのだという観点を強調しておきたい。
「測りすぎ」はさまざまな弊害をもたらす。たとえば、英語の論文の数を研究者の評価として指標にした時に何が起きるだろうか。投稿料を払いさえすれば、名前ばかりの査読で論文を掲載するジャーナル(いわゆる「粗悪学術誌」)が登場し、少なくない研究者がそこに投稿する。評価する側は「これはいけない」と言わんばかりに別の策を講じる。質の高い論文でなければ意味はないので、その論文がどれくらい引用されている有用なものなのかを測る「インパクトファクター」と呼ばれる指標を用いるのである。
これで出版されている論文の質を評価することができる、と思われるかもしれないが、実際には身内で不必要な引用や参照を繰り返してインパクトファクターを水増しする行為が横行している。となると、この指標だけでは不十分で、いっそのこと一部の有力誌に発表された雑誌だけを評価する、という極端な方式のほうがいいかもしれない、との発想に至る。だが、そのような有力誌は数が少ないし、国際誌では評価されない大事な研究の価値を不当に下げることにもつながる。正確に物事を測るのは実に難しいのだ。
また、ミュラーが『測りすぎ』の中で取り上げている、警察の統計をめぐる一幕は数字を前にした人間の行動を表していて興味深い。
米国の政治家にとって、自分の州の重大犯罪率は気になる情報だ。殺人や放火といった重大な犯罪の件数が多ければ現職にとって不利になる。現職から議席を奪おうとしている対立候補は、ここぞとばかりに現職の無能さを強調するだろう。
そこで現職は警察に対して、とりわけ重大犯罪の犯罪率を下げるように有形無形のプレッシャーをかける。あなたが警察幹部ならどうするだろうか。さすがに犯罪そのものを隠蔽するのは大事で、工作は大変だし、バレたりすればタダでは済まない。だが、犯罪の区分の操作は比較的簡単である。議員が気にしているのは重大犯罪の件数であるため、そこをうまく調整してやればいい。侵入窃盗は「不法侵入」、強盗は「ひったくり」といった具合に、重大犯罪を軽犯罪であるかのように扱えば、治安はそれほど悪化していないかのように見せかけられるわけである。
このような数字によるトリックが、ありとあらゆるところで起きている、とするのがミュラーの主張なのだが、ここでさらに興味深い指摘をもう一つ取り上げておこう。それは、「透明性」に関する議論である。
ある組織に不正が見つかった時、しばしば求められるのが、「適切なガバナンス」であり、それを支えるのが「透明性」だとされている。透明性を確保するには、ある組織での意思決定が、どのようになされ、なぜそのような決定に至ったかをつまびらかに公表すればいい。具体的に言えば、意思決定に関与した組織を公表し、それらの議事録、意思決定者が誰だったのかを示す公式の資料などの公表が求められる。
透明性は、よりよい組織運用のために必要であるように思える。だが、ミュラーはこのような方針が、議事録の削除のような、記録をそもそも残さないという行動を誘発し、さらには意思決定におけるやり取りで、決定的なことをあえて言わない、隠蔽するといったことを招くと論じる。外交や諜報にあたっては、より一層その側面があるとミュラーは強調する。秘密外交は弊害ももたらすが、国家間の交渉の全てを公にしてしまったら、まとまるものもまとまらないからである。
「透明性」は昔からありとあらゆる問題の解決策として提示されてきた。いわば「万能薬」に近い扱いを受けてきた。今日でも日本のマスコミでは、何かしらの問題に対して「透明性」を掲げることは珍しくない。だが子細に問題を眺めていけば、「透明性」が解決策として通用するのは、ごく一部の限られた領域の問題に過ぎないこともはっきりしている。日本において、アジア・太平洋戦争の終戦工作を、透明性をもって行っていたらどうなっていただろうか? おそらく終戦に反発する勢力の妨害工作が盛んになったばかりか、一般民衆の反応も予測がつかないものになったのではあるまいか。「透明性」そのものは大切に違いないのだが、それをありとあらゆるところに持ち出すのには、注意が必要だというのがここでの教訓なのだ。
更新:05月22日 00:05