王祇祭で演じられる奉納神事「黒川能」(写真提供:山形県公式観光サイト/やまがたへの旅)
米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。
「日本文明研究会(委員:河野有理、藤本龍児、三宅香帆)」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。今回は、抽象的・理念的になりがちな「日本文明」について、船曳建夫氏が「生きた文明」である山形県のある地域で営まれている「王祇祭(おうぎさい)」を例に4回にわたって検討していきます。(構成:藤橋絵美子)
いま、日本では毎日のように「人口減」が話題に上ります。日本ではさまざまな変化が起こるとき、黒川のような地方の地域は、その影響が最後に伝わってくるものでした。ところが人口減に関しては、その影響を真っ先に受けている。黒川に人口減の津波の第一波が来ていることが、恐ろしいほど感じられました。
「当屋」になった私の友人は修練の日々のあと、能太夫にもなりました。すると神社に肖像画の額が掲げられます。神社には、これまで村にさまざまに貢献した人たちの額がかかっている。その友人の額も上がるというので、喜んで見に行ったのですが、ふと思った。彼の額は上がったけれども、これから誰の額が上がるというのか。また、これから誰がその額を見るというのか。
多くの方は昨今の日本全体を襲う人口減少の状況を把握しているでしょうから、「そういうことも起きるだろう」と思われるかもしれない。ですが私は、かつての黒川の姿を知っている。かつては人が多すぎて、「どうやって村の男を婿養子として周りの村に送るか」に頭を悩ませていました。そのイメージからすると、現在の姿はとても信じられないのです。
「日本の人口は1億2000万人から7000万人になる」と言葉では簡単に言うけれど、この文明にとって、とてつもないことが起きる、とそのことを現場で見て肌で感じたのです。
この問題は単に「人口が減って祭りができなくなる」というものではありません。
一見すると、祭り(神楽や神輿などを含めて)は過去のもので、たまたま残っている文化遺産として捉えがちです。しかし、これらは今に存在する「現実の生活」です。日々の活動として「祭り」があり、その中にさまざまな知恵が込められている。その地域に住む人々にとって、祭りを行なうこと自体が「生きることの軸」となっているのです。
2011年3月、東日本大震災が起こり、東北地方ではあらゆるものが流されました。当時、人々がまずはどうにかしたい、と考えたのは倒れた「墓」だったそうです。また、ある財団にさまざまに集まった多額の寄附の使い道を問い合わせたところ、東北地方から上がってきた申請の多くが「祭り」に関連することだったと言います。
沿岸の津波に遭ったところではお墓がすべてなぎ倒された。震災後の初盆が7、8月に来るので、多くの人がそのときまでに墓をもと通りにしたいと願ったのです。また、被災で散り散りになった住民が再度集まるための軸となったのが、「祭り」でした。「〇月〇日」という祭りの日をめがけて、皆が力を結集させたのです。
津波にすべてを持っていかれてしまったあのとき、そこにわずかに残っている礎石のようなものは、「墓」と「祭り」だったのです。
私は、これこそが日本人の「信仰」というものだと思いました。「信仰」と聞くと仰々しく感じるかもしれません。あるいは「いや、「神」とか「信仰」とか、そういうものではないから」と否定するかもしれない。しかし、考えるときの焦点があり、それが何を生産するかということではなく、その焦点に皆が集中することで考えがまとまる。そこから広がって具体的な活動になる。そうしたことは抽象的で超越的な神がいなくても、それは生活の中では超越的であり、「信仰」と呼ぶべきものだと思うのです。
キリスト教のような世界宗教だけを宗教だと思っていると、その地域に住む人たちの「信仰」というものが最初は分からないものです。しかし黒川の王祇祭は、明らかに彼らの「生きる背骨」になっている。
祭りは一朝一夕にできるものではありません。これまで行なっていたという持続の中に、また続けるという困難を克服する楽しさがある。祭りの連続性は、日々の生活のバックボーンとなり、生きる意味となり、この地の文明をかたち作っているのです。
黒川の文明は、祭りだけではありません。人々が礼儀正しく、心優しい。私は渡辺京二氏の名著『逝きし世の面影』(1998年)を読むと、黒川を思い出します。畳の上での挨拶の仕方や人と人の間合いは全て、黒川で学びました。善悪や徳といったことも学びました。私は両親がクリスチャンだったこともあってキリスト教から受けた影響が非常に大きくはありますが、身体動作に伴った日常生活のモラルなどは、大いに黒川で学んだものです。
その視点から、黒川の危機はつまり、日本の信仰ひいては文明の消滅に直結する問題だと思えるのです。
歴史を振り返ると、この地域はこれまでもさまざまな苦境に立たされながらも、耐え抜いてきました。
古くは戦乱期の領主交代です。16世紀以降、この地域は領主が次々と変わる激動期を迎えます。しかし、もともとの庄内領主であった武藤氏から、江戸期に藩主となる酒井氏まで、経済的援助や庇護を受け続けてきました。おそらくこの地域は重要な米どころでもあるし、農業生産が安定していたことも要因だったのでしょう。第四代藩主酒井忠真の時代には鶴岡城中で黒川能が演能された記録も残っている。また城下でも黒川能が上演されることがあったといいます。
近代以降も、度重なる戦争での動員は非常に大きな影響があった。この地域は兵隊を集める「良所」です。男たちはみな、心身強壮で、忠義で、苦難に耐える。実際、黒川の友人の家に招かれると兵隊の軍服姿の写真がずらっと長押に並んでいる。「われらが皇軍」はこのような地域から兵隊を引っ張ってきたのだなということがよくわかります。
戦後は経済的な変化の時代でした。黒川の男の多くが東京へ出稼ぎに行くようになった。1950~60年代は、地方の男たちの多くが東京へ出稼ぎに出て、鉄道工事や道路建設に従事した時代です。今や忘れられていますが、東京の都市基盤を支えたのは、まさにこうした地方の労働者たちでした。
黒川地区の男たちも同様で、東京では6畳一間の部屋に4人ほどで住み、鉄道の路線の補修などを行なっていました。黒川では築数百年、延床面積100坪を超すようなかやぶきの大きな家に、長男ならば跡取りとしてどっかりと暮らしているのですが、東京に出稼ぎに来ると狭い部屋で暮らしていた。しかしこのときも、そのまま東京に住み着く人は少数だったし、一方で現金収入が入ることは村にはとても大きなメリットだったのです。
筆者にも、そんな時のことは楽しかった思い出です。当時新婚だった私の家にも来てくれて、そのときに妻が何を思ったか「スペアリブ」を作って出した。このことは50年経った今でも、幾度となく仲間内で出てくる話題です。「名前も知らないものを食ったら、うまかった」と。18時頃から集まって飲み、夜が更けて電車もなくなった時間にもかかわらず、彼らは泊まらずに帰っていきました。後から聞いたところ、実は私鉄の線路に沿って一時間ほどかけて歩いて帰ったらしい。
経済的には厳しい時代でしたが、そこには生きる確かな手ごたえがありました。出稼ぎとそれによる祭りが、黒川の社会を支えていたのです。
更新:04月09日 00:05