平安時代初期の大同2年(806年)創建といわれている山形県・春日神社で毎年2月に旧例祭「王祇祭」が行なわれる
米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。
「日本文明研究会(委員:河野有理、藤本龍児、三宅香帆)」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。今回は、抽象的・理念的になりがちな「日本文明」について、船曳建夫氏が「生きた文明」である山形県のある地域で営まれている「王祇祭(おうぎさい)」を例に4回にわたって検討していきます。(構成:藤橋絵美子)
近年、「日本とは何か」「日本文明とは何か」といった問いが注目を集めています。冷戦終焉以降のグローバル化の進展や、昨今の米中をはじめとする保護主義の揺り戻しのなかで、文明という枠組みがあらためて問われているようです。
「文明」という言葉はしばしば「文化」や「伝統」と混同されますが、文明とはいわば「政治体制、言語、信仰、社会秩序、生活様式などあらゆる構成要素の総体」とでも言いましょうか。個々の文化現象やその集積ではなく、社会全体を支える「生の形式」であり、時間的持続性を持つものだと思います。
こうした観点から見たとき、「日本」はきわめて特異な位置を占めています。政治学者サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』(1996年)で指摘したように、例えば日本文明は決して中国文明と同一にできるものではなく、独立したひとつの文明としてその動きを捉えなければ、見えてこないものがあるでしょう。
かつて私は、「大陸の横には島があり、そこには一つの小さな文明がある」という仮説を立てたことがあります。アフリカ大陸の横にはマダガスカル、インド亜大陸の横にセイロン(現スリランカ)、オーストラリア大陸の横にはニュージーランド、北アメリカ大陸の横にはキューバ、そしてユーラシア大陸の横には日本がある。これらの島々はいずれも、大陸とは異なるリズムと時間意識をもって社会を形成しているように思われたのです。
私の研究室の学生をマダガスカルに送り出したこともある。やや無茶振りです。しかし、彼はマダガスカルを専門とする立派な研究者となり、現在は東京大学の副学長です。その意味では彼をマダガスカルに派遣した私の判断は間違っていなかったと思いたい(笑)。いずれにしても、外部からの影響を完全には遮断せず、しかし自らの内部秩序を損なわないかたちで異文化を吸収し、独自の世界を築く島嶼文明については今後、誰かが研究を行なうことを期待しています。
この島嶼文明を典型的に体現しているのが、日本ではないでしょうか。外来の制度や思想を柔軟に受けながらも、それらを日本的文脈に落とし込んでいった。とくに6~7世紀、白村江の戦いの後あたりから、中国を意識しながらも「日本文明」というものがはっきりと独自の単位になっていったと考えます。
こうした文明論はしばしば抽象的・理念的になりがちですが、今回、その姿をより具体的に捉えるために、山形県のある地域で営まれている「王祇祭(おうぎさい)」についてお話したい。これは単なる地域のイベント、あるいは民俗的な遺産ではなく、社会秩序と信仰の両面を兼ね備えた現在に「生きた文明」なのです。
山形県鶴岡市郊外に、現在は行政単位として村でも町でもありませんが、「黒川」という地域があります。この黒川では旧正月として2月1日、2日に毎年、「王祇祭」と呼ばれる祭りが行なわれます。祭りのなかでは神事として能が奉納されます。その「黒川能」は国の重要無形民俗文化財にも指定されています(1976年指定)。
黒川は、じつは私が最初のフィールドワークを行なった地域です。初めて黒川の地を訪れたのは20代初めのころ。黒川は編集者である姉が雑誌『太陽』に黒川能についての記事を書き、黒川能が全国に知れ渡ることになるのですが、その姉に連れられて行ったのが始まりです。
王祇祭、そして黒川能の歴史は、じつに古い。室町時代に京の都で観阿弥と世阿弥によって大成された能が、応仁の乱(1467年~1477年)以降の文化の分散とともに地方に伝搬していきました。黒川に能が伝わったのは、その時期だと言われます。以後、500年もの年月にわたり、この地に伝統芸能が受け継がれてきました。
王祇祭はとても大がかりな祭りです。人数的に大がかりなのではなく、システムとしてとても綿密につくられている。黒川の人々は、生まれながらにして祭祀のサイクルのなかに位置づけられています。
例えば祭りに関しては、さまざまな役職がある。王祇祭において祭礼を主宰し、神(ご神体)を自宅に迎えて祀る家を「当屋(とうや)」と言います。当屋を務めるのは年齢(早く生まれた)順で、生まれたときから当屋になる順番は決まっている。翌年に当屋を受けるのは「受当屋(うけとうや)」で、祭りの責任を受け継ぐ準備をします。
地域は「上座(かみざ)」「下座(しもざ)」という2つの宮座(みやざ)(祭祀を担う氏子たちの組織)に分かれ、それぞれに祭祀の責任を負う宮太夫と、能の太夫がいます。太夫は宗教的中心であると同時に、政治、文化など地域社会全体の秩序を担う存在でもあります。
この地域では60歳あたりから老人組(長人衆)に入ります。これは宮座内で儀礼と秩序を守る長老層の集団です。王祇祭で能が舞われるとき、彼らはその舞台の巡り(周り)にずらりと並んで座る。これを「巡(めぐ)りの長人衆(おとなじゅう)」と言います。長生きをした者はみな、裃(かみしも)を着て、前に大きな提灯を置き、舞台の周りに座って祭りを見守る存在となるのです。
他にも、祭りの会計を担う役、料理を作る「世帯持(しょたいもち)」等々、それぞれの役割が数百年のあいだ途絶えることなく、代々引き継がれているのです
王祇祭は、その手順も詳細に決められています。全てはとても書ききれないので、その一端をご紹介すると、祭りの最初のほうに「座狩(ざかり)」という儀式があります。上座、下座、それぞれの宮座の者が紋付と裃をつけて集まり、「遠藤重左衛門様、お着きなされましたか」「ようござります」という具合に、一人ひとり名前を読み上げる。こうした名(屋号)が記されている「座狩帳」は、300年ほど前のものまで残っているでしょうか。
祭りの中では「五番立て」の能が奉納されます。「番」とは一つの能の上演単位で、要は、5つの曲目の能が演じられる。さらに、その合間に4つの狂言が挟まります(黒川には、能だけでなく狂言を行なう家もあります)。夕方から翌朝まで、夜を徹して能と狂言が演じ続けられる。能大夫の家では代々の面(おもて)が保存されており、その数は百を超えるほどあります。
ちなみに、黒川の全家庭が芸能を実際に行なっているわけではありません。能に関して言えば、能太夫の家筋と、そこへ習いに行っている人、という具合に、能役者を出している家は地域全体の3割ほどでしょうか。祭りの中で若者だけが参加する儀式などもあり、それをきっかけに笛や太鼓、能を習いに行くようになることもあります。
祭りの最後には、「王祇様(ご神体)」についている布を、「布はぎ」の儀式によって剥がし、翌年の当屋である受当屋に渡される。受当屋はこれに家紋を染め、翌年に着用するための素襖をつくる――こういったことが連綿と続いているのです。
もちろん、日本では各地の祭りに古式豊かなさまざまな手順や儀式があるでしょうが、黒川は全戸合わせても300ほどしかない。それほど小さな地域に、大嘗祭かと思うほどの細かさで全てがあるのです。
日本は全国どこへ行っても祭りがあるという不思議な列島ですが、近代において、これほど小さな単位に祭りがある国は、海外を見渡してもないのではないでしょうか。日本のように、現在の県や市の中に昔からの歴史のある地域的なまとまりが幾つもあって、そこが祭りを長年保持しているということは非常に例外的で、驚嘆に値することでしょう。
かつて私は、この黒川の営みについて修士論文を書きました。本編と資料編があるのですが、当時は20代前半で馬力もあったので、資料編には祭りの手順等を綿密に記した。この論文はよく研究室の図書室から借り出されるので、出来は悪くなかったと思われます。
私は団塊世代である昭和23年生まれで、黒川にも同世代の人間が7人ほどいて、親しくなりました。この黒川での調査以後、南洋方面での調査研究に移ったため黒川の調査はストップしていたのですが、彼らとの交流はずっと続いていました。
あるとき、民俗学者の赤坂憲雄氏から、彼が編集責任を務める雑誌『東北学』で「黒川について書いてほしい」と依頼されました。ですが当時、黒川の調査の際にもっともお世話になった家に不幸が続き、書けなかった。そのことを、「書けない理由」というタイトルでエッセイとして書きました(『東北学』vol.4、2001年5月)。外から来たフィールドワーカーであるにもかかわらず、この地域には骨絡みに入り込んで、ついには身内のように「書けなく」なってしまっていたのです。
その黒川の友人たちが、60歳頃から、村で徐々に偉くなっていく。そして、ついに私の親友の1人が、「受当屋」を経て「当屋」になるときがきたのです。私は「ついにきた!」と、お祝いに出かけました。
しかし、そこで大変な衝撃を受けました。村では子どもの声がほとんど聞こえない。聞けば、もっとも山よりの集落であるそこには小学生が5人しかいないという。
長らく祭りの担い手を輩出してきた集落がいま、静かに、しかし確実に「蒸発」しようとしているのです。
更新:03月14日 00:05