2026年04月03日 公開

松下幸之助は終戦直後にPHP研究所を創設して以来、人間とは何かについて思索を重ね、その集大成ともいえる『人間を考える』(昭和47年〈1972年〉発刊)において、「人間には万物の王者たる優れた本質が与えられている」とする肯定的な人間観を提唱しました。
それから半世紀を経て、戦争や環境破壊、AIの進化など人類は新たな岐路に立っています。「22世紀の人間像研究会」では、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していきます。
本稿は文化人類学者の磯野真穂さんによる「文化人類学における身体性の解釈の変容」の話を受けた「22世紀の人間像研究会」メンバーによるディスカッションです。全3回でお届けします。
いまや「一人で食べること」は孤立ではなくアイデンティティとして語られるようになりました。これが私たちの追い求めてきた究極の「自分らしさ」の物語なのでしょうか。(構成:中嶋 愛)
【先崎】磯野さんの話のなかでンデンブの儀式というのが出てきましたよね。村に困った人がいて、他の村人と反目しあっていたけれど、その状態に「悪霊憑き」という意味付けをして霊を追い払うことで事態が解決したという。
【磯野】はい。この困った人はカマハサニという人なんですよ。
【先崎】同じような話を、僕のやっている日本思想史でいうと、柳田國男の『遠野物語』とか、それを使った吉本隆明の『共同幻想論』に出てきます。それは次のような物語です。山に入った猟師が顔の赤い鬼に会っていろいろな話をして帰ってきた。すると数日たって死ぬんです。なぜ死んだのか。恐らく赤い顔の鬼というのは共同体における禁忌の象徴なのですね。それを見てしまった。その結果、ちょっとしたかすり傷を負っただけで数日寝込んで死んでしまう。もちろん、科学的にはかすり傷で人は死にません。しかし人間はかすり傷に、共同体が共有する「意味」を与えられると、肉体的に死ぬことができる、という話なんです。
また、吉本隆明の『共同幻想論』では、「国家も共同の幻想である」として、国家批判の本として読まれました。しかし吉本の主張は、人間というものは、会社であれ法体系であれ、あらゆる共同性を構築する過程で、かならず「共同幻想」をつくるものである。だからその最良の事例である国家が、どのように成立してくるのかを暴き出したいといものでした。マルクス主義のいうように、人間は経済的範疇だけで生きているのではなく、「共同幻想」を操り、あるいは操られつつ生きていくのだよ、と。
さきほどのンデンブの儀式の話は、科学とか、エビデンス主義とかでこの先いけるのだろうかという話につながっていくように思います。
【先崎】あと、気になったのは『孤独のグルメ』の話です。
【磯野】はい。人がひとりでものを食べることにフォーカスしたドラマが流行っているという話ですね。
【先崎】そうですね。まず、「食べる」とは生理的な行為ですね。つまり、私たちのアイデンティティが生理的なものになってしまっている。「共同幻想」がむしろ退潮し、僕たちの社会は身体的なものが露出してきているのではないか。
「孤独」の反対は、もちろん「関係性」です。「関係性」とは、食事でいえば、食べる行為そのものではなく、誰かと一緒に食べるとおいしいとか、会社の人と食べるより家族で食べるほうがおいしいとか、そういう文化的価値のことですよね。僕らはそういう、人間同士の複雑な凹凸とか象徴の中を生きているはずです。にもかかわらず、身体性だけがアイデンティティになっていることは問題なのではないか。以前本にも書いたのですが、痛覚、いわゆるリストカットが生きていることを最終担保するものになっているというのと、一人で食することがアイデンティティになっているというのは似ていると思いました。
【磯野】本当にそうですね。『孤独のグルメ』もそうだし、『ソロ活女子のススメ』もそうなのですが、一緒に食べることを強要されるのが苦痛であるというメッセージにもなっているんですね。「一緒に食べるとおいしい」ということをある種の制約と捉えている。「家族はそろってご飯を食べなくてはならない」とか、「会社の飲み会は必ず出ないといけない」という価値観に我々が苦しめられた面もたしかにあるのですが、それを振り切った反動として、別の共同幻想に引き寄せられる面もあるのではないかと。縄文左派や縄文右派もその一つのあらわれだと思います。
【先崎】いや、その通りだと思いますよ。縄文左派と縄文右派というのを具体的に言うと、縄文右派というのは梅原猛みたいな人たちを念頭に置いていて、縄文左派というのはどちらかというと岡本太郎のような人たちがモデルなんだと思います。ここで言われている縄文というのは、近代的な関係性とか境界線からの解放の象徴なんですよ。
対して、弥生は近代的なものの象徴なんです。たとえば「資本主義システムに乗っかっている」みたいなことを批判するときに、過去に回帰して、原始共産主義社会を持ちだすことがあります。マルクスですらそうです。こうした、近代システム批判の日本における典型的バージョンが縄文なのです。縄文には人間の根源的エネルギーが保存されていると。反近代であると。
だから、「資本主義社会の拘束から解放されたい」というときに、「そこに日本の本来の姿がある」というのが縄文右派で、「近代主義の象徴である国家以前の、もっとプリミティブな人間関係に戻りたい」というのが縄文左派になっていく、というふうに僕は思っている。
いずれにしても境界線とか、関係性とか、「何々らしさ」とか、これら全部を含む近代システムから解放されたいというのが基本にある。芸術でもそうですよね。最も象徴的なのは、デュシャンの「泉」という作品で、これはトイレを逆さまにして「泉」と書いただけのものです。これは芸術を「意味」から開放する行為でした。
僕は、芸術の場合は、こうした考え方はすぐれていると思っています。しかし、人間社会をこうした縄文モデル?で考えることが、果して正しいかと言われれば、少し疑問に思っている。あらゆる関係性からの解放は、一見、自由に見える。しかし僕の考えでは、この自由は、あらゆる定義を外的なものとして退けた結果、無色透明の自分が不定形に存在する「自由」になると思う。この「自由」は、結果的に、自己存在を身体性にしかもてない。したがって、絶対の解放がもたらす負の側面として、「自由」はリストカットに行きつくと思うんです。ここで言っているリストカットとは、要するに、自己存在証明=痛覚という身体性にまで縮減することを言っています。
身体性への過剰な還元については、フランシス・フクヤマが『アイデンティティ』という本でこんなことを書いているんですね。あらゆる何々らしさというのをどんどん破壊していった場合、たとえば「サッカーという競技において男女平等に扱うべき」という今までの境界線に対する異議申立てを通り越して「サッカーという試合自体が男性中心主義に作られたものだから破壊されるべき」となっていく。これをセックスに当てはめると「セックスそのものが男性中心主義だから認められない」となって、普通の性交とレイプの境界をなくせという話になっていく。
ここまでいくと、社会全体の秩序、すなわち関係性のなかで生きているはずの人間存在が、そもそも成り立たたなくなる可能性があると僕は思っています。
【磯野】全く同感なのですが、少し追加をさせていただくと、実は「らしさ」から解放されて「自由になる」「自分らしくなる」という思想は、資本主義とすごく相性がいい。「何でも1人でできますよ」ということは、関係性の中で行われていたものを経済的なものにアウトソーシングしていくということです。資本の力をつかえば自分の身体もいくらでも変えられるし、関係性を切っても生きていけるということです。関係性の負の面ばかり、あるいは解放のいい面ばかりを強調することは、資本主義をよくないかたちで加速させていく気がしています。
【先崎】さきほど、為末さんのお話で、やはりなと思ったことがあります。ドーピング容認の世界大会に対して、シリコンバレーの人たちがすごく関心を示したというところです。代表格のイーロン・マスクなんかは、あらゆる関係性から自由になりたい人ですね。彼には国境も邪魔だし、地球さえ自分を束縛するものと考えて火星を目指す。不老不死を本気で考えているふしもあります。そうした彼らにとって、「ありのまま」の身体で競うような従来の競技のあり方すら、束縛であり、不自由なんですよ。ドーピングでどこまでも滑走していきたいのです。
ただ、こういう考え方が行き過ぎると、反動がおきます。その典型がJ・D・ヴァンス副大統領です。ヴァンスのブレーンは大体40歳前後で若いのですが、観念的保守主義で、「古きよきアメリカを取り戻さなきゃいけない」という強烈な共同体主義なんです。共同体主義とは、要するに「自分を社会の関係性のなかに位置づけてほしい」という欲求です。彼らの考える「自由」とは、社会において応分の役割をもらい、やりがいを得ることで、将来的な見通しをもつことができるという意味です。まさしく、イーロン・マスクと正反対の自由観なのです。トランプはマスク的なるものとヴァンス的なるもの、この両者を頭に乗せて、国家像をつくっているわけです。
この現象を日本でみるとどうなるか。ヴァンス含めた観念的保守主義者は、日本で言えば縄文右派なんです。たとえば、参政党は健康食品へのこだわりが非常に強い。身体性に極端にこだわって、たとえば「体の中から汚いものを排除しなきゃいけない」ということを言い出している。この「不浄なものを排除したい」という身体感覚が、国家に転移すると、移民排斥になります。そして不浄とは、実は差別のはじまりであり、あらゆる戦争行為などにおいてあきらかなように、他者を汚いとか、臭いとか、言い始めるのはきわめて危険な兆候なのです。
【為末】ンデンブの話で僕が思い出したのは、タイガー・ウッズのセックススキャンダルがでたときに、すぐさま「自分はセックス依存症だ」ということを本人が告白したことです。村の困った人に悪霊がとりついていたという話と似ていると思いました。「悪霊=セックス依存症が私の行為を支配していたのです」という話ですね。依存症というシンボルに罪を負わせることによって、本人は免罪になる。
【磯野】確かにタイガー・ウッズはそうでしたね。文化人類学的な観点だと、脱魂、憑依といった状態も使えそうです。魂が抜けたところに悪いものが入ってきて病気になる、あるいは悪霊に憑依されて病気になるという解釈です。現在の病態理解の際に使われる言葉はずいぶん違いますが、これもひとつの責任回避のシステムと言えるでしょう。「私と病気は別」であり、悪いのは病気であるというものの見方です。
【為末】そうですね。病気だったら「気の毒だ」となる。タイガー・ウッズの場合でも一時はスポンサーが降りるのではといわれましたが、「依存症です」となった瞬間に、そういうことならむしろ支援が必要だ、というふうに世論が変わったんですね。
【磯野】それが微妙になるのが連続殺人のようなケースです。「精神に問題があった」で許されていいのか」という話です。
【為末】文化人類学で調査するような、いわゆる伝統的な社会では殺人の許され方も私たちの社会とは違うように思うのですが、どうなんですか。
【磯野】理由にもよりますが、許されるような状況もあります。例えば、フィリピンのルソン島に居住しているイロンゴット族の男性には、耐え難い怒りや苦しみを抱えたときに、その感情を放出するかのように首狩りをするという風習がありました(現在は廃絶)。そこでフィールドワークをしていたレナート・ロザルドという人類学者は、最初なぜ彼らがそんなことをするのが理解できなかったのですが、フィールドワーク中に奥さんが不慮の事故で亡くなるんです。しばらくたったときに、絶えがたい怒りや悲しみが湧いてきて、その時に初めて、イロンゴットの首狩りの儀礼の意味がわかった、ということを『文化と真実(Culture and Truth』という本に書いています。
また国民国家社会では兵士が戦争で兵士を殺すことは罪に問われません。しかしこれもこの文化の外側から見たら奇妙な状況に見えるのではないでしょうか。殺人を徹底的に断罪しながら、他方で、戦争中のそれについては、許容しているのですから。
【為末】殺人ではない罪については儀式として許されるケースもあると思うんです。それが依存症でしたが施設苦しいリハビリを経て復帰を果たしました、というストーリーだったり、日本でよくある記者会見だったり。それぞれの文化圏での許され方みたいなものがあるような感じがします。
【磯野】ニュージーランドのアダーン元首相が、かつてニュージーランド入植者がアボリジニにやったことについて、アボリジニに伝わる謝罪の儀式(https://youtu.be/a4pVL3guMu4?si=enNaQejgIqmCIEJx)を使って、儀式の最中にアボリジニの人が涙を流すという場面がありました。謝罪というのは多分そういう身体性を伴った儀式を経て完了するのかもしれないですね。ただ、今の社会はなにかあると簡単に復帰不可能になる。謝罪の型が消えている気もします。
【為末】スキャンダルになったときにうまくいく謝罪といかない謝罪というものがあると思うんですね。うまくいったのは綾小路きみまろさんです。ネタを盗用したことをあっさり認めて「ついうっかりやってしまいました」で許されたんです。まったく同じ時期にモーニング娘の安倍なつみさんも盗用疑惑で炎上して謹慎処分になった。大ごとになるかならないかに実はそんなにくっきりした基準が無くて、そこを分けるのは社会の文脈のようなものがあるのかなと。タイガー・ウッズはアメリカでは「依存症です」であっさり許されたけど、日本だと「依存症でもやったことには違いない」といわれて簡単には許されなかった気がします。
更新:04月04日 00:05