このような政治体制の下では、皇帝が唯一の主として全国の人民を直接支配下に置いておくから、皇帝は当然、人民の生活と全国の政治に対して全責任を負う立場となってしまう。
良き政治が行なわれて人民の生活が安定して国が安泰であれば、それが「皇帝の徳」の表れと見られて皇帝が「聖君」と賛美されるが、政治が乱れて人民の生活が苦しくなると、皇帝が逆に「昏君」と思われて不平不満が皇帝のほうに集まってくるのである。
「王の時代」の封建制においては、殷や周王朝の王の代わりに全国の各地方を実際に治めるのは諸侯となる貴族たちであるから、政治に対する責任が分散されている。失政に対する人民の不平不満は王に対してよりも、人民を直接に支配している各諸侯のほうに集まってくるであろう。
つまり、封建制においては政治に対する責任が分散される一方、失政のリスクも各諸侯によって分担されている。だが、中央集権制の下では皇帝が唯一の主人と支配者であるから、皇帝自身が政治に対する全責任を持ち、すべてのリスクを背負うことになっているのである。皇帝は政治の全責任を負わされる代わりに、絶対的な権力と権威も手に入れている。
しかし後述のように、皇帝が手に入れたこのような絶対的権威と権力こそ、皇帝と彼の王朝を破滅へ陥れる深い罠になっていくのである。
上述のように、秦の始皇帝が創建した中央集権の政治体制においては、「王の時代」の王とは比べにならないほど皇帝の権威と権力が極度に強化され、すべての政治権力が皇帝に集中させられた。このような体制が出来上がると一見、人民に対する皇帝の政治支配が盤石なものとなり、皇帝独裁が揺るぎのない永久のものとなっているかのように見える。
実際、秦の始皇帝が自らを「始皇帝」と称するのも、自分の死後に子孫たちの皇帝独裁が「二世皇帝」「三世皇帝」へと永遠に続くことを念頭に置いているからである。
しかしのちの歴史の展開は、この絶対的な権力者の意にまったく反するものであった。
更新:11月21日 00:05