秦王朝の驚くべき早い滅亡は、いったいどういうものだったのか。ここで、王朝が崩壊していくプロセスをもう少し詳しく見てみよう。
前述のように、秦の始皇帝が死去したのは前209年であるが、じつはその時、彼は地方視察の道中にいた。彼の死後、宦官の趙高(ちょうこう)と丞相の李斯(りし)が共謀して皇帝の死を伏せておき、皇帝の詔書を偽造した。
本来なら皇位を継ぐべき太子の扶蘇(ふそ)に対しては亡き皇帝の命令として死を賜わる一方、始皇帝の遺言と偽り、末子の胡亥(こがい)を新しい皇帝に擁立した。
この陰謀を主導したのは趙高である。胡亥は太子の扶蘇よりはるかに暗愚であることと、趙高自身が胡亥の教育係を務めたことがその理由であろう。つまり趙高にとって、胡亥はたいへん御しやすい存在だったのである。
はたして胡亥が秦二世となって即位すると、王朝の全権は趙高が握ることとなった。前述のように、秦の始皇帝がつくり上げた皇帝独裁の中央集権制において、皇帝は絶対的な権威と無制限の権力を持つ存在となっている。
だが、肝心の皇帝自身が暗愚で操られやすい人間である場合、臣下の誰かが皇帝を精神的に支配してしまえば、皇帝の持つ無制限の権力がこの臣下の手に丸ごと移ってしまうこともある。
じつはそれは秦の時代以来の中国史上、無数の弊害をもたらした「皇帝の落とし穴」の1つであった。その始まりは、まさに趙高と胡亥の関係にある。
皇帝の胡亥を完全に操ることによって、趙高は権力の頂点に登り詰めてわが世の春を迎えた。だがまさにその時、王朝の土台を根底から揺るがす大事件が起きた。
前209年7月、現在の安徽(あんき)省宿州(すくしゅう)市付近の大沢郷で、強制的に徴兵されて北部国境の防衛に向かうはずの農民900人が、陳勝と呉広をリーダーにして反乱を起こした。
道中に大雨に遭い、定められた期日通りに目的地に到着することができず、処刑される恐れがあったことから、どうせ死ぬならいっそのこと、と思い切って決起した。すなわち、中国史上最初の農民反乱「陳勝・呉広の乱」の勃発である。
反乱軍は直ちに大沢郷を占領したのちに周辺の諸県を攻略して、戦国時代の楚の国の首都であった陳を占領した。その時、反乱軍はすでに騎兵1000余、兵卒数万の大勢力に膨らんでいた。
そして乱の飛び火が直ちに全国に広がり、各地で農民を中心とした民衆が秦の官吏を殺して蜂起し、全国に及ぶ秦王朝の中央集権的支配が音を立て崩れていった。
更新:11月21日 00:05