<<評論家の石平(せき・へい)氏が先日発表した著書『中国をつくった12人の悪党たち』。同書は英雄譚、美談に彩られた中国史上の英雄たちの正体と陰謀の数々を解き明かす意欲作である。
中国の激しい権力闘争を生き残った権力者たちは総じて「悪党」であり、21世紀になった現在でもその本質は受け継がれていると石平氏は語る。本稿では同書より一部抜粋して紹介する。>>
※本稿は石平著『中国をつくった12人の悪党たち』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
拙著『中国をつくった12人の悪党たち』が取り上げた中国史上の12人の人物のうち、たとえば項羽と孔明の2名は、一概に「悪党」であるとはいえないと思うが、他の10名は確実に100%の悪党。
そして中国の歴史も、中国という国のかたちも、まさにそれらの悪党によってつくられているのである。
中国の悪党はまず、日本史上や西欧史上の悪党と比べにならないほどの、腹の黒さと残忍さを第一の特徴としている。
たとえば漢帝国の創始者となった劉邦にはこういうエピソードがある。彼は好敵手の項羽と戦って負けて、馬車に乗って追手から逃げた際、同乗した幼い息子の二人を馬車から蹴落としたことがある。息子たちが同乗していると、馬車の逃げるスピートが落ちるからである。
自分の命を守るためには、肉親の息子を殺しても構わないというこの御仁は、どれほど残忍な人であって、どれほどの悪党であるのかが、これで分かってくるのであろう。
あるいは中国史上、有名な則天武后・武照もそうである。
妃の一人として唐高宗に仕えたとき、彼女は何とかして現役の皇后を失脚させて自らが皇后の座に収まろうと企んでいた。そのために武照は、皇后を陥れるための恐ろしい罠を設けた。
そのとき、武照が女児の一人を生んだ。皇后の王氏はある日、出産見舞いを兼ねて生まれたばかりの赤ちゃんを見るために武照の住む宮殿にやってきた。しかし、どういうわけか武照は不在であった。皇后はいわば母性本能の発露か、赤ちゃんを抱き上げ、しばらくあやしてからベッドにおろし、そのまま部屋を出ていった。
しばらくして、朝廷での仕事を終えた皇帝の高宗が赤ちゃんを見るためにやってきた。武照は愛想よく高宗を迎えて、赤ちゃんを見せるためにベッドから抱き上げたところ、嬰児はすでに死んで冷たくなっていた。
武照はわっと泣き出して、侍女を呼んできて「誰か人がここに来なかったか」と問い詰めた。侍女は、「先ほど皇后様がお見えになられただけです」と答えた。それを聞いた高宗が激怒して、「皇后のやつめが、朕の娘を殺したのか」と怒鳴ったという。
もちろん、皇后が赤ちゃんを殺したという証拠は何もないが、この一件で高宗の皇后に対する不信感と憎悪が生まれてきて、やがて皇后の廃位につながった。そして廃位された皇后の後釜に座ったのはもちろん、嬰児死亡事件の「被害者家族」の武照その人である。
しかし実際には、武照は「被害者」でも何でもない。たんなる加害者だ。そう、女の赤ちゃんをこの手で殺したのはほかでもない、まさに母親の武照自身である。
『新唐書』などの正史に記述されている事件の真相はこうである。
その日、皇后が赤ちゃんを見にくるとの知らせを受けた武照は、わざと自分の部屋から出て不在を装った。そして部屋には侍女なども置かないことにした。皇后がやってきて、赤ちゃんを抱き上げて退出した直後、武照は密かに部屋に戻ってきて嬰児を絞め殺した。
そしてもう一度部屋から出て、高宗が来るのを待っていた。高宗がやってくると、「嬰児が誰かに殺された」という恐ろしい一幕が、武照によって演じられた。
その結果は前述のとおり、現役の皇后はやがて廃位されて武照が念願の皇后の座を手に入れたわけであるが、自らの野望実現のためにこの人は、母親でありながら自分の娘を絞め殺したのだ。則天武后という人は、どれほど残酷でどれほど腹の黒い悪党なのか。
彼女の腹の黒さは、そういう意味では肉親の息子たちを馬車から蹴落とした劉邦以上のものであるが、結果的には腹の黒い悪党同士のこの二人は、両方とも天下を取って歴史をつくった。
更新:12月22日 00:05