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前漢の高祖・劉邦の知られざる残虐性 「国家の私物化」と「恐怖の政治粛清」

2019年06月28日 公開
2023年01月11日 更新

石平(評論家/拓殖大学客員教授)

 

国家の私物化が特徴の中国流「家産制国家」の原点

劉邦が項羽に勝つという結末は、じつは中国の歴史におけるもう一つの大いなる分岐点ともなった。

周王朝の成立から秦帝国が天下統一を果たすまでの約800年間、中国の政治制度は概して封建制であった。つまり、王様のもとで多くの諸侯が「封
土(ほうど)」という各自の領地を自律的に治めるという政治システムで、日本の江戸時代の幕藩体制とも類似している。

その場合、権力の分散による「天下の共有」が封建制の基本理念となっている。

この封建制の伝統を打破して中国史上最初の中央集権的専制帝国をつくったのは秦朝であるが、建国してわずか十数年後、まさに項羽や劉邦たちの反乱によってそれが潰れた。

そうすると、ポスト秦朝の国づくりに向けて、秦朝以前の封建制に戻るのか、それとも秦のつくった中央集権制を継承するのか、それは当然、中国史にとっての重要な選択となったのである。

秦帝国の潰れた後、一時的に最大の勢力となって天下平定の主導権を握った項羽は、いかにも楚の国の貴族の末裔らしく、確実に封建制の再建を目指した。

彼は楚の懐王を天下の王様として擁し、秦朝を倒すのに功のあった武将や旧諸侯を対象に十八の諸侯を封じてそれぞれに領地を与えた。自らは楚の国の旧領を中心とする土地を領地として「西楚の覇王」と号し、日本でいう「征夷大将軍」のような立場に立とうとしていたのである。

そのとき、劉邦は漢王に封じられて、現在の陝西(せんせい)省にある漢中地方を封土として与えられた。

彼はやがて「西楚の覇王」項羽に反旗を翻すことになるが、もしその後の漢王劉邦の反乱と勝利がなければ、項羽の目指した封建制の再建は成功できたかもしれない。もちろん、それからの中国史も、まったく違った方向へと向かったであろう。

しかし、最後の勝利を勝ち取ったのは漢王の劉邦である。そして、彼はむしろ秦の始皇帝流の専制的中央集権制の骨格を継承し漢帝国を建てた。漢王はそのまま、漢帝国の初代皇帝となったのである。

『中国をつくった12人の悪党たち』で、劉邦が皇帝となってから、父親の「太公」に対して、「昔親父は、よく俺のことを家業も治めない無頼だと馬鹿にしていたなあ」と文句をいったことを記述したが、じつは太公はあのとき、家業を興すのに日夜励んでいる劉邦の兄との比較において三男坊の劉邦の無頼漢ぶりを叱ったわけだった。

そして今度は皇帝となった劉邦は、父親に対する意趣返しのつもりで、上述の文句の続きにこういったという。

「ところで、いまの私の成し遂げた家業は、兄と比べればどちらのほうが多いのか」

つまりこの無頼漢上がりの皇帝は、天下国家というものを、まったく自分とその一族の「資産」のようなものとして認識しているのである。

蘇秦や李斯や趙高の場合もそうであるが、どうやら天下国家を自分たちの「私物」だと見なすところに、中国史上の謀略家たちの最大の共通点があ
る。

そして、劉邦が家族の内輪で語った上述の本音剝き出しの一言はまた、彼が秦の専制制度を継承してつくった漢帝国の国家体制の本質をズバリといい得た名セリフといえよう。

要するに、皇帝とその一族による国家の私物化を特徴とする「家産制国家」がここにあるのである。

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