2018年09月07日 公開
2024年12月16日 更新
1995年3月30日、当時の國松孝次警察庁長官が何者かに狙撃された。犯行の確固とした証拠は得られず、2010年3月30日に殺人未遂罪の公訴時効(15年)を迎える。犯人はオウム真理教なのか、警察の内部犯行なのか、それとも――。一橋文哉著『オウム真理教事件とは何だったのか?』(PHP新書)より一部抜粋し、その真相に迫る。
長官狙撃事件をオウム真理教の犯行と決めつけ、Kや早川、井上、そして平田……とわずか半年足らずの間にターゲットを次々と替えた公安当局が、最後に辿り着いた相手こそが警視庁の現職警察官でオウム信者の元巡査長であった。
それは狙撃事件から一年二か月経った一九九六年五月、警視庁本富士署に属し、何と地下鉄サリン事件特捜本部のある築地署に応援派遣されていた元巡査長が「私が長官を撃ちました」と自供したことから始まった。
調べに当たった警視庁公安部は当初、この事実を懸命に隠蔽したが、内部告発文書が出回ったり、オウム信者の洗脳解除を手掛けていた脳機能学者による元巡査長へのカウンセリングビデオがテレビ番組で流れるなどしたため発覚、大きな問題となったのだ。
その内部告発文書は九六年十月十四日付の消印で警視庁記者クラブに加盟する報道各社に郵送されてきた差出人不明の封書で、白い紙にワープロ打ちされた文書が入っていた。
《國松警察庁長官狙撃の犯人は警視庁警察官(オーム信者)。すでに某施設に長期監禁して取り調べた結果、犯行を自供している。しかし、警視庁と警察庁最高幹部の命令により捜査は凍結され、隠蔽されている。警察官は犯罪を捜査し、真実を究明すべきもの。》
という内容で、迂闊にも警察庁警備局や警視庁公安部は、これに全く気づかなかった。
また元巡査長はカウンセリングの中で、①長官を狙撃した、②現場を井上嘉浩ら教団幹部たちと下見した、③凶器のコルトパイソンを神田川に捨てた─ことを明かしていた。
ただ、元巡査長の供述には矛盾点が多く、早川や井上、平田らの名前が次々と登場する供述内容は揺れ動いて二転三転したため、裏付け捜査は難航した。
さらに大勢の捜査員が神田川で大規模な捜索活動を行い、その様子がテレビで流れ世間の注目を集めたが、結局拳銃は見つからなかった。
東京地検は元巡査長の供述には信憑性がないと判断し、立件を見送った。また執念深い警視庁公安部は二〇〇四年に、長官狙撃事件に関連して、元巡査長ら三人を殺人未遂容疑で逮捕したが、東京地検は「証言に信憑性がない」と不起訴とし、身柄を釈放している。
この元巡査長は後に懲戒免職処分となり、警察を去っている。
この騒動の真の問題点は元巡査長の供述が信用できるかとか、事件の真相はどうなのかということに加えて、次の四点にあると言っていいだろう。
第一は、身内の自供に衝撃を受けた警視庁公安部が関係者全員に箝口令を敷き、検察庁はもとより、警察組織のトップで事件の被害者でもある國松長官に対してさえ、その事実を隠していたことである。
極秘捜査の結果、元巡査長が狙撃犯である可能性は薄くなったが、本人がそう供述している以上、下手に釈放してマスコミにでも接触されたら大変なスキャンダルに発展すると考えた公安部は、彼の身柄を極秘に都内のホテルに隔離し、取り調べを続けたのだ。
しかも、そんな事態が警察関係者と見られる人物によって内部告発され、問題をさらに深刻化させた。元巡査長のことを隠せば隠すほど彼の供述の信憑性を高める結果となり、世間には「不祥事隠し」と映ったのだから、公安部の判断ミスと言われても仕方ないだろう。
「いくら身内の人間とはいえ、任意で調べている人間の身柄を長期間隔離したことは人権上問題がある。ある意味では犯人隠避や証拠隠滅と捉えられかねず、特別公務員職権濫用罪の疑いさえある」(東京地検関係者)との怒りも当然であろう。
そうした世間の怒り以上に、警察内部の反発や憤激は凄まじかった。
激怒した國松は問題が発覚した三日後には櫻井勝警視庁公安部長を更迭し、最終的には「盟友」と言われた井上幸彦警視総監も解任した。
この國松の厳しい処置は信頼を裏切ったことへの怒りの大きさを示すとともに、「警視庁を庇い切れず、警察組織全体を守るために断行した」(警察上層部)ということを意味している。
だが、この処断が皮肉にも、第二の問題点を発生させた。
更新:12月29日 00:05