<<海洋進出を加速させる中国。南シナ海をコントロール下に置き、次のターゲットは東シナ海。尖閣諸島を含む南西諸島への挑発ともとれる動きが伝えられている。
米シンクタンクで海軍アドバイザーを務めた軍事アナリストの北村淳氏はいつ中国が魚釣島へ侵攻してもおかしくない情勢であると指摘し、近著『シミュレーション日本降伏』では、海洋進出を加速させる中国が魚釣島に侵攻した場合に、日本は短期間で降伏してしまうという衝撃のシミュレーションを展開している。
なぜ尖閣諸島はここまで危うい存在になってしまったのか? 同書では、かつて尖閣諸島に興味すら持たなかった中国が突如として領有権を主張するようになった経緯に言及している。 本稿ではその一節を紹介する。>>
※本稿は北村淳著『シミュレーション日本降伏 中国から南西諸島を守る「島嶼防衛の鉄則」』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
尖閣諸島は、石垣島の北北西約170㎞、沖縄本島の西約410㎞、台湾本島の北東およそ170㎞の東シナ海に点在する五つの島(魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島)と三つの岩礁(沖の北岩、沖の南岩、飛瀬)、それらに付属するいくつかの小岩礁からなっている。
これらの島嶼のうち最も広いのが魚釣島で、面積はおよそ三・八平方㎞、尖閣諸島の最高地点もやはり魚釣島にあり海抜三六二mの奈良原岳山頂である。1879年に琉球王国が日本に編入されて以降、尖閣諸島は実質的に日本の領土と見なされた。
ただし日本政府はこれらの島々の帰属を国際法的に明らかにしておこうと考え、1885年から10年近くにわたって尖閣諸島の歴史的な領有状況に関する調査を実施した。
その結果以下の二点が明確になった。
(1)尖閣諸島は永きにわたって無人島である。
(2) 清国(当時の中国は満州民族の王朝である清王朝に支配されていた)をはじめ、いかなる国家も尖閣諸島に支配権を及ぼしていない。
そのため、日本政府は1895年1月14日、「先占の法理」という国際的に広く認められていた原則に基づいて、尖閣諸島を日本領土(沖縄県)に編入した。そして翌1896年、日本政府は民間実業家の古賀辰四郎に尖閣諸島の四島(魚釣島、久場島、北小島、南小島)を貸与することにした。
古賀辰四郎はアホウドリの羽毛の採取やカツオ節製造などを開始し、魚釣島は200名以上の住民が居住する有人島になった。しかし、1940年ごろには事業が衰退し、二代目の古賀善次は事業から撤退したため、尖閣諸島は再び無人島となってしまった。
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更新:12月21日 00:05