2019年02月20日 公開
『ボヘミアン・ラプソディ』全国公開中/配給:20世紀フォックス映画/© 2018 Twentieth Century Fox
大ヒット映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、多くのファンや観客を魅了した。しかし、気鋭の映画研究者・伊藤弘了氏によれば、同作とナチ・ドイツ時代のプロパガンダ映画には、共通する映像戦略があるという。そしてその手法は、アイドルにも及ぶ。どういうことなのか。論考「國民的アイドルの創生」で映画評論大賞2015を受賞した伊藤氏が、大衆を惹きつける存在の“危険な魅力”を解き明かす。
※本稿は『Voice』3月号、伊藤弘了氏の「『ボヘミアン・ラプソディ』の危険な魅力」を一部抜粋、加筆・編集したものです。
ここに切れ味抜群の一本の包丁があるとする。一流の料理人なら、これを使って人々を感動させるようなすばらしい料理を作ることができるだろう。一方で、同じ包丁を使って人を殺傷することもできる。この話からはどのような教訓が引き出せるだろうか。
包丁には危険性が内在しているということである。しかし、これは包丁の切れ味を批判しているわけではないし、包丁という道具の存在を否定しているわけでもない。間違いなく有用な道具だが、扱い方を誤ればその危険性がむき出しになるので気をつけなければならないと言っているだけである(具体的には小さな子どもの手の届くところに置かないとか、刃先を人に向けないとか)。
同様の危険性は映画にも内在している。しかも、その危険性は、どうやら包丁や銃ほどには自明ではないようだ。実際のところ、映画が持っている危険性は、数百万、数千万本のむき出しの包丁にも匹敵しうるものであるにもかかわらず。
映画は簡単に人を騙すことができる。人畜無害なロックスターを伝説化することができると同時に、狂気の独裁者を魅力的に描き出すこともできてしまう。わたしたちは、このことの意味をよくよく考えてみなければならない。
『ボヘミアン・ラプソディ』の魅力を支える映像戦略とナチス・ドイツのプロパガンダ映画に見られるそれとは密かに通じ合っている。いずれの映画も、中心にいるカリスマ的なスターを美化するためにさまざまな仕掛け(カメラ・アングル、編集等)を駆使しているからである(そのために猫まで動員している点も同じだ)。
くれぐれも誤解のないように断っておくが、だからといって筆者は『ボヘミアン・ラプソディ』をナチス呼ばわりしたいのではまったくない。そんなことをしても噴飯ものの議論として一笑に付されるだけだろう。
そもそも『ボヘミアン・ラプソディ』を批判しているわけですらない。『ボヘミアン・ラプソディ』とナチ・ドイツのプロパガンダ映画は、当然のことながら、内容的にはまったく関係がない。このことを念頭に置いたうえで読み進めていただきたい。
では、何が問題となるのか。その内容はともかくとして、魅力的な映像を組み立てるという水準ではやはり両者は連続している。そのこと自体に危うさがあるのではないかというのが、一連の議論を通して筆者が主張したいことである。
更新:11月05日 00:05