
「人間の医学のために猫を研究する」...一見すると不思議に思えますが、身近な動物である猫は、人間と似た多様な病気や遺伝的背景を持っており、ガン治療や、新興感染症のメカニズム解明において重要な役割を果たしています。人間とさまざまな動物の病気や生命現象を比較する「比較生命医科学」ではどのような研究がなされているのでしょうか。本記事では、人と動物が互いに救い合う最新の医療アプローチと、ウイルスとの共存に向けた知られざる研究の世界をご紹介します。
※本稿は、宮沢孝幸著『猫が世界を救う 人を魅了する不思議な力から、医学への貢献まで』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
人間だけを見て病気を理解しようとするのではなく、さまざまな動物の病気や生命現象を比較することで、病気の原因、予防、治療の手がかりを探る考え方があります。英語ではComparative Medicineと呼ばれます。直訳すれば比較医学ですが、この日本語訳では意図されていることがわかりにくいかもしれません。医学というと、人間の病気だけを扱うものと思われがちだからです。そこで本書では、これをもう少し広く、比較生命医科学と呼んでみたいと思います。
比較生命医科学とは、人間、動物、ウイルス、遺伝子、環境をばらばらに見るのではなく、いろいろな生き物を比較しながら、生命全体のつながりの中で病気を考える学問です。動物の病気を動物だけの問題として閉じ込めず、人間の病気を理解する手がかりとしても見る。逆に、人間の医療で進んだ技術を動物の治療にも応用する。すなわち、人間と動物のあいだを行き来する、双方向の医科学なのです。
この考え方をアメリカで大きく進めた研究者の一人が、米国国立がん研究所(National Cancer Institute:NCI)のスティーブン・J・オブライエン博士でした。米国国立がん研究所と聞くと、人間のがんだけを研究する場所のように思うかもしれません。しかし、20世紀後半のNCIでは、がん、レトロウイルス、がん遺伝子、宿主の遺伝的抵抗性、そしてゲノム進化が互いに深く結びついたテーマとして研究されていました。
オブライエン博士が猫に注目したのは、偶然ではありません。猫には、がんや免疫不全と関係する重要なウイルス感染症がありました。さらに猫には、遺伝病、腎臓病、心臓病、神経疾患、代謝異常、がんなど、人間と比較できる病気が数多くあります。オブライエン博士らは、猫を伴侶動物としてだけではなく、人の疾患、感染症、比較ゲノム学、進化学をつなぐ重要なモデルとして位置づけたのです。
現代の生命科学研究では、マウスが重要な実験動物として用いられています。もちろん、そこには一つひとつの命を尊重する姿勢が前提としてなければなりません。研究では、主に遺伝的背景がそろえられたラボラトリーマウス、すなわち実験室用マウスが用いられます。マウスでは遺伝子を調べたり操作したりしやすく、世代時間も短いため、生命現象を理解するうえで多くの知見をもたらしてきました。また、飼育環境や遺伝的背景を一定にしやすいことから、条件をそろえた実験を行いやすいという利点があります。これは、実験結果を正確に比較し、再現性を高めるために大きな意味を持ちます。
しかしながら、実験室用マウスは、自然界に生きる動物や人間社会に存在するような幅広い遺伝的多様性をそのまま反映しているわけではありません。したがって、マウスで得られた結果をそのまま人間や自然界の動物に当てはめるのではなく、その限界を理解したうえで慎重に解釈する必要があります。
一方、猫は人間のすぐそばで暮らしています。家庭で飼われ、地域で暮らし、病気になれば動物病院で診察されます。つまり猫は、自然な遺伝的多様性をもちながら、獣医療によって病気が発見され、記録される動物なのです。ここに、猫を研究する大きな意味があります。
さらに猫には品種という系統があります。ペルシャ、アビシニアン、メインクーン、シャム、マンチカン、ノルウェージャンフォレストキャットなど、品種はさまざまですが、これらは遺伝学的にはある程度閉じた集団、すなわち他の品種との遺伝子の交雑が少ない集団です。そのため、ある品種に特定の病気が多い場合、その病気に関係する遺伝子を探しやすくなります。人間では非常にまれな病気でも、ある動物種やある品種では比較的まとまって見つかることがあるのです。それを手がかりに、そのような病気を遺伝的に調べることで、病気に関係する遺伝子や発症メカニズムに近づくことができます。
これは、猫を人間の代わりに使うという発想ではありません。猫自身の病気を正しく理解し、猫を救おうとする研究が、そのまま人間の病気を考える手がかりにもなるということです。
比較生命医科学の双方向の流れは、感染症の分野にもあります。猫伝染性腹膜炎の治療薬は、その一つです。
また、人間の医療で発達した技術を、獣医療へ応用しようとする研究もあります。その代表例の一つが、CAR-T細胞療法です。CAR-T細胞療法とは、患者自身のT細胞、つまりリンパ球の一種を取り出し、がん細胞を認識できるように遺伝子改変して体内に戻す治療法です。人間では、悪性リンパ腫や一部の白血病に対して効果を示してきました。
この技術が動物に応用されれば、動物の難治性がん、リンパ腫に対する新しい治療法になるかもしれません。
動物を救うための研究が人の医学に貢献し、人の医学で発達した技術が獣医療へ戻ってくる。これこそが、理想的な姿なのです。
この比較生命医科学の考え方は、ワンヘルスという概念にもつながります。
ワンヘルスとは、単に、動物から人にうつる病気に注意しましょうという考え方ではありません。人間、動物、環境のあいだにある見えないつながりを理解し、そこから病気の本質を探ろうとする考え方なのです。
とくに感染症の世界では、この考え方はとても重要です。ウイルスは人間だけを相手にしているわけではないからです。
ウイルスは、野生動物、家畜、伴侶動物、人間のあいだを行き来します。ある動物ではほとんど問題を起こさないウイルスが、別の動物にうつると重い病気を起こすことがあります。あるいは、長いあいだ動物の中で静かに存在していたウイルスが、突然、人間社会に入り込むこともあります。これが新興ウイルス感染症となるのです。
新興感染症のほとんどが、動物由来のウイルスと深く関係しています。だからこそ、動物がどのようなウイルスをもっているのかをあらかじめ知っておくことは、人間社会にとって必要な備えです。
近年話題になっているものに、重症熱性血小板減少症候群(Severe Fever with Thrombocytopenia Syndrome:SFTS)があります。SFTSは主にマダニによって媒介される感染症ですが、発症した猫や犬から人へ感染したと考えられる例も報告されています。
新興感染症というと、コウモリ、げっ歯類、野鳥などの野生動物が注目されることが多くあります。野生動物がもっている病原体の研究はもちろん重要です。しかし、人間と同居して、同じ空間で呼吸し、ときには同じ布団で眠る伴侶動物にも目を向ける必要があります。猫と人が近い距離で暮らしている以上、猫に関わる感染症についても正しく知っておく必要があります。
猫は、人間がもっているウイルスとよく似た種類のウイルスを、たくさんもっています。もちろん、猫のウイルスの多くは基本的には猫の中で維持され、人にそのまま感染するわけではありません。猫で人の病気とまったく同じ病気を起こすわけでもありません。しかし、人のウイルスだけを見ていては気づきにくいウイルスの性質を、猫のウイルスが教えてくれることがあります。
さらに私たちの研究において、犬のパルボウイルスは、世界でほぼ同時に独立して同じ変異が起こりえること、その結果、犬から猫へ宿主を飛び越えて感染するようになったことなどがわかりました。他にも、猫のカリシウイルスは人のノロウイルスに似ていますが、わずかな変異で劇症型にもなることがわかっています。
そして、なぜある猫では重症化し、別の猫では軽症で済むのか、どのような遺伝的背景や免疫応答が病気の結果を左右するのかというような、人間の感染症を理解する手がかりも、伴侶動物の病気を調べることで得られることがあるのです。
新興ウイルス感染症は、たしかに恐ろしいものです。未知のウイルスが現れ、急速に広がり、人間社会に大きな不安をもたらすことがあります。しかし、ウイルスと宿主の関係は、勝ち負けだけで終わるわけではありません。
もちろん、急に重い病気を発症することもありますが、長い時間軸で見れば、ウイルスの側も宿主をすぐに絶やしてしまうようなやり方だけでは残れませんし、宿主の側もすべてのウイルスを完全に排除して生きているわけではありません。多くの場合、どこかに均衡があります。感染してもすぐには重症化しない、あるいは、長いあいだ症状が表に出ない。そうした状態は、中途半端ということではなく、ウイルスと宿主のあいだで成立した均衡ともいえます。
この均衡がどう作られ、どう崩れるのかを考えることは、ウイルス学の大きなテーマの一つです。
そのことを考えるうえで、とくに興味深いのがネコ免疫不全ウイルス(feline immunodeficiency virus:FIV)です。
この均衡を分子レベルで捉えると、気づかなかった世界が見えてきます。宿主の細胞には、ウイルスを抑えるための防御因子があり、宿主とウイルスが知恵比べをしているのです。
新しい感染症に対して、私たちは恐怖だけで向き合うべきではありません。ウイルスが何をし、宿主がどう応答し、どこで発症し、どこで均衡が生まれるのかを知ること。その積み重ねが、将来の感染症対策につながります。猫のウイルス学は、人類がウイルスとどう付き合っていくべきかを考える、広大な世界につながる入り口なのです。
更新:09月11日 00:05