ヒトのゲノム(遺伝子の総体)の約9%は、はるか古代に哺乳類が感染したレトロウイルス(RNA型ウイルスの一種。宿主の細胞の核に入り込み、DNAを書き換える特徴を持つ)由来のものである。
このレトロウイルスが、なんと現在進行形でコアラのゲノムに入り込んでいるという。「ウイルスによるゲノム改変」というダイナミックな事象を、リアルに観察することができるのだ。
※本稿は、宮沢孝幸著『なぜ私たちは存在するのか ウイルスがつなぐ生物の世界』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
私は1999年から2001年にユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)のウィンダイヤー医科学研究所のロビン・ワイス教授のもとに留学していました。そのとき、ロンドンのインペリアル・カレッジから同じ研究室にやってきたジョー・マーティン博士が興味深い現象を私に教えてくれました。
彼女は、レトロウイルスの一種であるマウス白血病ウイルスに近縁の内在性レトロウイルス(宿主のゲノムと一体化したレトロウイルス)について研究していました。あるとき、大英博物館などからさまざまな生物のDNAサンプルをもらい、どんな生き物にマウス白血病ウイルスに近縁の内在性レトロウイルスがいるかを一つ一つPCRにかけて調べていました。
そのサンプルにはコアラもありました。彼女はそのとき、不思議なことに気づいたのです。コアラのゲノムの中に、アジアのギボン(テナガザルの一種)の白血病ウイルス(ギボン白血病ウイルス〔GaLV〕)に似ているレトロウイルスがあったのです。
PCRで見つかったコアラのレトロウイルスの配列は、本当に内在性レトロウイルスなのでしょうか。
PCRで分析をしても、サンプルの中にあるレトロウイルスがコアラの個体間を感染で飛び回っているレトロウイルス(これを外来性レトロウイルスと呼びます)なのか、遺伝で親から子へ伝わっていく内在性レトロウイルスなのか区別がつきません。
ただ、レトロウイルスが感染しないと思われる部位から採取したDNAだったので、彼女が見つけたのは内在性レトロウイルスである可能性は高いと考えられました。
内在性レトロウイルスは大昔の感染の痕跡です。そうなると謎は深まります。なぜかというと、ギボンに感染しているGaLVは外来性レトロウイルスですので、内在性レトロウイルスよりも歴史的に新しいウイルスのはずです。
そうなると、コアラの内在性レトロウイルスがコアラから飛び出して、ギボンに感染したことになってしまいます。しかし、ギボンとコアラが棲息する場所は、長い歴史を考えても異なっており接点がないので、理屈にあいません。
私は今でも、彼女から「どう思う? タカ、どう思う?」と聞かれたことをよく覚えています。私にもわかりませんでした。
コアラは2つの系統に分かれています。北方系と南方系のコアラです。北方系のコアラは主にクイーンズランド州とニューサウスウェールズ州に棲息し、南方系のコアラは主にヴィクトリア州に棲息しています。
北方系のコアラは小柄なのですが、南方系のコアラは北方系のコアラの2倍ほどの体重があり、体毛も長く毛の色が暗い傾向にあります。見ればだいたい区別はつきます。オーストラリアは南半球ですから、北の方が温暖です。この形質の差は気候の影響があると推測されます。
北方系のコアラではリンパ腫や白血病が頻発していました。その腫瘍にレトロウイルス粒子が見つかり、さらにその遺伝子解析がなされました。そのウイルスはコアラレトロウイルス(KoRV)と名付けられました。先ほど述べたように、KoRVはギボンのGaLVと近縁でした。
その後、衝撃的な論文が世界的に有名な科学雑誌『ネイチャー』に発表されました。2006年のことです。今まさにコアラのゲノムにレトロウイルスが入っているという内容でした。
そのKoRVの遺伝子情報をもとにPCRでウイルスの感染状況を調べたのですが、なんと北方系のコアラはそのKoRVを生まれながらにしてもっていたのです。一方南方系のコアラはそのKoRVをあまりもっていませんでした。
つまりKoRVは北方系のコアラから南に向かって感染が広がり、北方系のコアラでは近年生殖細胞に入り、内在化しつつあるのではないかと推察されました。
現存の生物、それもほ乳類でレトロウイルスがゲノムにリアルタイムで内在化しつつあることは夢にも思わなかったので、とても驚きました。
驚いた次の瞬間、ジョー・マーティン博士のことを思い出しました。彼女はその大発見の近いところにいたのです。KoRVとGaLVが似ていたのは、おそらくギボンの白血病ウイルスに近いウイルスが近年コアラのゲノムに入ったからなのです。
当時の調査では、北方系コアラのゲノムには、近年入ったと思われる内在性レトロウイルス(親から子へ遺伝で引き継がれるKoRV)とともに、外来性のKoRV(個体間を感染で広がるKoRV)が分離されました。
しかし、南方系コアラになるとKoRVの検出は半分以下になり、カンガルー島と呼ばれる南の島のコアラはKoRVの感染はゼロでした。
興味深いことに、北方系のコアラの個体数は減少しているのにもかかわらず、南方系のコアラは増えており、カンガルー島のコアラに至ってはたくさん増えすぎて、逆にコアラの食べ物であるユーカリがなくなってしまい、島内のコアラが食料不足で餓死するのではないかと危惧されていました。
北方系のコアラの個体数が減少するのは、生息域の環境の悪化(森の分断、山火事、交通事故)と考えられてきましたが、一番の要因は外来性KoRVなのかもしれません。
感染個体は白血病やリンパ腫、あるいは免疫不全になって死亡することが多いのです。北方系のコアラでは免疫抑制によると考えられるクラミジアの感染も蔓延しています。
外来性KoRVの感染による病気以外にも、レトロウイルスが生殖細胞のゲノムに入ったことによって、繁殖率が落ちた可能性が考えられます。この率の低下が一時的なものなのか、長く続くのかはわかりません。
最近の報告によると、KoRV感染個体がいなかったカンガルー島のコアラにもKoRVが入ってしまったようで、KoRVの陽性率も上がっているそうです。カンガルー島のコアラでKoRVが内在化しつつあるのかについてはまだわかっていません。
なぜ、今、コアラのゲノムにレトロウイルスが侵入しているのでしょうか。私は次のように推測しています。
大陸はいつも少しずつ移動しています。これまでに、いくつもの大陸が長い時間をかけて分裂したり結合したりしてきました。オーストラリア大陸や南極大陸は、かつては他の大陸の一部でしたが、そこから離れて移動し、今の場所に至っています。
オーストラリア大陸や南極大陸が移動を始めたとき、ちょうど巨大隕石が地球に落ちたのです(およそ6550万年前)。そして恐竜は絶滅して、ほ乳類がそのニッチを埋めていきました。
ほ乳類ではレトロウイルスの流行やレトロトランスポゾンの活性化がみられ、胎盤がさまざまに進化し、その中で真獣類(有胎盤類)が現れました。
しかし、オーストラリア大陸と南極大陸は、すでにその他の大陸から離れていました。オーストラリア大陸では、ほ乳類にはしっかりとした胎盤をもつ真獣類が現れず、子どもを体内で大きく育てられるような胎盤ができませんでした。
どうして、オーストラリアには真獣類が出現しなかったのか。私は、他の大陸ではあった胎盤の進化のもとになったレトロウイルスの侵襲がこの大陸ではなかったからなのではないかと考えています。
ところが、およそ数万年前に人類がオーストラリア大陸に到達し、さらに今から200~300年前、ヨーロッパから多くの入植者がやってくるようになりました。
ウシやヒツジなどの家畜の他に、ネズミなどの真獣類のほ乳類も人とともに侵入しました。そのときに、それらのほ乳類を宿主とするレトロウイルスもたくさん入ったのではないかと考えられます。
今、コアラのゲノムにレトロウイルスが次々に入って内在化しているのは、この頃になって別の大陸から、有袋類が感染したことのないレトロウイルスをもった真獣類が、オーストラリアにたくさん入ってきたからではないでしょうか。
更新:11月21日 00:05