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研究者が到達した「所詮、人間もウイルスのようなもの」という生命観

2023年06月07日 公開

宮沢孝幸(京都大学医生物学研究所准教授)

宮沢孝幸 ウイルス

30年以上ウイルスを研究してきた宮沢孝幸氏は、「生命の場」という概念を提唱し、その中でしか生きられないウイルスと人間は同じような存在なのだと説く。我々は「個」という概念に囚われすぎてはいないだろうか。

※本稿は、宮沢孝幸著『なぜ私たちは存在するのか ウイルスがつなぐ生物の世界』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

 

個とは何か?

なぜ人は死を怖がるのでしょうか。

本能と言えばそれまでですが、亡くなる前の苦痛だけではなく、自分が消滅してしまうことに恐れを抱くのではないでしょうか。

もし魂というものがなかったら、肉体とともに自分が消えてしまいます。また、たとえ魂というものが存在したとしても記憶が消されてしまうのだとしたら、一体、自分は何のために生きているのだろうかと嘆くのではないでしょうか。

私は若い頃にそんな考えに陥って苦しんでいました。突き詰めて考えてみると、死の恐怖の原因は「自分は存在する」という感覚です。果たして自分は本当に存在しているのでしょうか、そして死とともに消えてしまう存在なのでしょうか。

皆さんは、挿し木をご存じでしょうか。私は園芸好きな父親の影響もあって、小さい頃から植物に興味がありました。小学生の時から父の見よう見まねで、サツキを集めて育てていました。変わった形の花を咲かせるサツキを集めて楽しんでいたのです。

サツキは、簡単に挿し木で増やすことができます。梅雨の頃に枝の先を切って、土に挿して水を与えていると、根が生えて、育ってきます。つまり、一つの個体になります。

親株から切り離された枝が一つの個体になるのだから、一本の木はおのおのの枝(個体となり得る要素)が集まった集合体と捉えることもできます。植物に意識があるのかどうかはわかりませんが、たとえ意識があったとしても、個の概念はない、あるいは極端に薄いのではないかと思います。

では、動物ではどうでしょうか。扁形動物であるプラナリアは2つに分割すれば2つの個体になりますし、4つに分割すれば4つの個体になります。

動物であるプラナリアも「個」の概念があるかどうかはわかりません。実験でわかったことですが、プラナリアには記憶ができる機能があることは確かです。

餌の条件付けをすることで行動を変えることができ、その記憶はしばらく持続します。記憶があるというのであれば、個の意識はあるのかもしれません。ではその場合、2つに割ったらどうなるのか。これにも興味深い実験があります。

条件反射を覚えたのは中枢神経がある頭部だと普通は考えるのですが、頭部だけでなく、尾部の方にもなんらかの記憶が残っている(尾部から再生されたプラナリアでは学習時間が短くなる)そうです。

とすると、2つに切られたプラナリアは記憶も2つに分けられていることになります。その場合、自己の意識はどうなるのでしょうか。不思議でなりません。一体何が個の単位なのだろうと思ってしまいます。

私たちほ乳類はこのようにはまいりません。体の一部を切り離して、それを育てたらもう一人の人間ができるということにはなりません。

しかし発生をさかのぼって考えてみましょう。私たちは受精卵から始まりました。だから、受精卵から個が存在していたと考えてもよいと思います。受精卵が分裂して2細胞期になったときに2つに分かれると、どちらも発生して個体になります。一卵性双生児です。

プラナリアのように体を半分にしたわけではないのですが、2細胞期の細胞を分割してしまえば2人になり得るのです。ただし4細胞期になってしまうと、4つに分けても個体にはなりません。発生は止まってしまいます。

受精卵からさらにさかのぼると、卵子の細胞や精子の細胞になります。卵子や精子の細胞は減数分裂して染色体の数が半数になっていますが、もとの細胞である卵原細胞、精原細胞までさかのぼると、それぞれの細胞が分裂して受精卵のもと(卵子や精子)になります。

個体として生まれても、生殖細胞は分化した体細胞とは別に維持されていて、個体が性成熟すると交配して精子と卵子から受精卵を作ります。

素っ気なくいえば、私たちは生殖細胞を綿々とつないでいるに過ぎません。私たちの体は生殖細胞を維持して、交配するための装置と考えることもできます。

生殖細胞のレベルで捉えると、卵子や精子のもとになる細胞は分裂して増えていってそれぞれが個体のもとになっています。子孫ができていく限り生殖細胞の連続性は途切れることはありません。あれこれ考えると、個というもの自体、結構曖昧なものであることに気がつきます。

 

超個体という考え方

私たちの体の中には病気を引き起こすことなく感染(不顕性感染)しているウイルスがいます。最近の研究では、健常なヒトの体内において、少なくとも39種類のウイルスが常在的に感染していることも報告されています。

ただし、それだけの種類のウイルスが同時に感染しているわけではありません。健康な547人の体内を調べてみたら、これだけの種類のウイルスが検出されたということです。

その中には、単純ヘルペスウイルスやEBウイルスなどのヘルペスウイルス、さらには季節性の風邪を起こすとされるヒトコロナウイルスもありました。

どんなに健康な人でも、少なくとも数種類は持続的にウイルスに感染しているのです。もちろん、ウイルスだけではありません。腸内には約1000種類、100兆個もの細菌がいるといわれています。

人体は、数多くの生命体から成る1つの大きな複合体と言ってよいでしょう。体の中では、数多くの生き物が関係性をもって、いろいろなやりとりをしています。実際、腸内細菌は人体の免疫システムと深く連携しています。

また、ウイルスは個体間の遺伝情報のやりとりをしています。細菌も同じような役割を担っています。体の中と外で、生命のネットワークが何重にも重なるように相互に関係し合っているのです。

人体を「超個体」と表現する研究者もいます。人体は、単体では維持できないからです。ヒトという種だけでヒトの体が維持されているわけでもありません。

このように考えると、自分は一体何者なのか、そして自己と非自己の境界は一体どこにあるのか、ますますわからなくなってきます。

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