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「小さく失敗をする」ことの大切さ...エビデンスの時代に効く「凡庸な結論」

朱喜哲,谷川嘉浩,杉谷和哉

エビデンスもナラティヴも社会に必要だが、同時に両者にはそれぞれ別の危うさもある。では、私たちはそれぞれとどう付き合えばよいのだろうか。6月に共著『増補  ネガティヴ ・ ケイパビリティで生きる』が刊行された三氏が、エビデンスの時代に求められる態度や知恵を検討する。(構成:編集部)

※本稿は、『Voice』2026年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

保守性と反体制性はなぜ同時に存在するか

【谷川】現代の政治や消費を論じるうえで、「人が自分で選びたがっていない」という見識は大事だと思います。たとえば買い物でも、商品を一つずつ調べるのは面倒だから、ランキングやレビューを見て「とりあえず一番人気なら安心だろう」と選ぶことがありますよね。

政治でも商品でも、複数の選択肢をちゃんと比較して主体的に選ぶ人はほとんどいないだろうし、選択にかけるコストが小さい分、たとえば政治ならば、誰に投票したか一年後に覚えていることも珍しいかもしれない。そうして判断を外部に委ねることも、現代社会では一つの合理性になっている。

この「自分で選びたがっていない」状況に、エビデンスを装う言説や、「こちらを選ぶべきだ」と思わせるナラティヴが入り込んでくる。チームみらいや参政党などの呼びかけはその典型でしょう。しかも現在は、「みんなが選んでいるものに乗りたい」という保守性と、「既存を壊す新しいものを選びたい」という反体制性が合体して、終末論的なニーズが生まれている。つまり、世界のあり方を決定的に変える何かを引き起こす誰かを待望している。旧体制の破壊と革命を約束する人に従えば、やはり選択や決断を避けることができます。

【杉谷】昔は「この人を支持する」という属人的なコミットメントに、さほど抵抗感がなかったのかもしれません。でもいまは「選ぶ責任を負いたくない」という感覚が強くなっている。そこで、その選択が「データやエビデンスに基づいている」と言われると、人は納得しやすい。結果的に失敗しても、「あの時点ではそう判断するしかなかった」と、自分を納得させられますから。

だから参政党なども、たんに「私たちを信じてください」と呼びかけるのではなく、「これだけのデータや証拠があるのだから、この判断は合理的ですよ」と提示している。言い換えれば、「あなたが責任を感じなくて済む選択肢を、私たちが用意します」と語りかけているのです。要するに、人は一方で「自分で選びたくない」と感じていると同時に、「新しい選択をしたい」という欲望ももっていて、その二つが政治や消費の世界では同時に動いているのかもしれません。

【谷川】なるほど。エビデンスであれ、ナラティヴであれ、自分の手元に責任を置かなくて済む、と。

【杉谷】だからこそ、自分と違う判断をする人がいたら、その人はお金をもらっているか陰謀論者か、完全に頭がおかしいのだ、と決めつけることで自分の世界観を守るわけです。そして、自分の判断が間違ったとしても、その責任はエビデンスやナラティヴを提示した側にあるという理由で安心するのではないでしょうか。

【朱】面白い議論ですね。たしかに、理由をうまく提供してあげることが、いまの投票行動の一つのポイントになっているのかもしれません。選挙はじつのところ民主主義の一つのチャンネルにすぎませんが、他方で投票行動には、「とにかく誰かに入れなければならない」と考えられている側面がある。

でも、多くの人はすべての候補者や政策を比較したうえで合理的に判断するわけではないし、そんな時間もありません。すると、エビデンスにせよナラティヴにせよ、「なぜそこに投票するべきなのか」について「言い訳」を提供してくれる政党が支持を集めやすくなるのでしょう。

【谷川】参政党については、独特の言葉遣いの導入も見逃せません。支持者の一部は「グローバリゼーション」と「グローバリズム」を区別し、後者を口にしたら、既存のイデオロギーに感染した人だと判断する。オーガニズム(有機体)のように、英語ではイズムが名詞化である場合も多いのですが、参政党目線で言えば、この「混同」や「誤用」は、既存の権威の知的レベルを嘲笑する根拠になるわけです。

 

私たちはいかに「共に生きる」べきか

【杉谷】私は新著『エビデンスの罠』(PHP新書)の本の最後で、相手をナラティヴやエビデンスによって自分と同じ地平に立たせようとするのではなく、まずは「違う人がいるのは当たり前だ」と受け入れることから始めるのが大事だと書きました。そのうえで、対話を諦めるのではなくて、共生していくことが重要なのではないか、と。

これは、朱さんの新刊『バラバラな世界で共に生きる』(NHK出版新書)に書かれていることにも通じます。朱さんの本を読んで感じたのは、私たちは「共生」や「共に生きる」ことを難しく考えすぎているのではないか、ということでした。複雑な論点を取り出しすぎているのかもしれない。本当はもっと単純でシンプルな原則に基づいて、共に生きていくことができるのかもしれません。

【朱】あえてEBPMにも引き寄せて、政策において「何を目的に置くか」「どの数字をKPIに置くか」という話を考えてみます。たとえば「交通事故をゼロにする」と掲げることが現実的で適切なのかは疑わしいですが、「死亡事故をなるべく減らす」はめざせますよね。さらに、事故の際に死亡に直結する要因としてシートベルトの着用率が重要とわかっていれば、「シートベルトの着用率を上げる」という施策が考えられる。

このように、漠然と「あらゆる事故を防ぐ」と掲げるのではなくて、目的を分解し、KPI同士の関係を示したうえで「ここに効かせるためにこれをやる」と整理することが、考えが異なる人同士が共に生きていくうえでも重要なのだと思います。

この話をするときに私が思い出すのが、哲学者の三木那由他さんに指摘されたことです。私はそのとき、「会話の事故」を起こさないためにはどうすればよいかについて話していたのですが、すると三木さんに「でも、小さな事故を経験するからこそ大きな事故を避けられるようになるのではないですか」と言われた。ハッとしましたね。三木さんの言葉はかなり示唆的で、最初から絶対に事故を起こさないようにしようとすれば、「もう運転するな」という話になってしまうでしょう。

【谷川】「一発退場だから、もう社会参加するな」という話にならないように、小さな失敗が大事ですね。

【朱】私たちはそんな世の中をめざすべきなのか、という話です。個人のコミュニケーションで言うと、少し怒られるとか、相手にマズいことを言ってしまったと気づくとか、そういう小さな事故の経験があるからこそ、差別や排外的な言説に乗ってしまうことを避けられるかもしれない。ならば政治でも、私たちはどうすれば小さく失敗できるのかを考える必要があるように思います。

【杉谷】政治における小さな失敗として、すぐ思いつくのは選挙です。投票した政治家が本当はかなり問題のある人だったと選挙後にわかって、「なぜあんな人に騙されたのか」と感じるような経験が、じつは大事ではないでしょうか。というのも、谷川さんが先ほどお話しされていたように、最近ではそもそも自分が誰に投票したのか、覚えていない人が多いからです。

【谷川】そうか。問題のある政治家に投票しても、そもそもその人物に投票したことさえ覚えていなければ、それを「失敗」だと認識できませんからね。

【杉谷】おっしゃるとおりです。もちろん、投票した人の問題が発覚したからといって、それが直ちに失敗だというわけではありません。民主主義はやり直しができる仕組みですから。問題なのは、フィードバックがまったく利いていないことでしょう。投票したら「やりっぱなし」になっているとすれば、それこそ大問題です。

学生と話していると、「間違った人に投票したくない」という声が少なくありません。でも、「間違っているかどうか」の線引きは難しいですよね。汚職や捕まるような政治家は明確に「間違った人」ですが、多くの場合、判断の境界線はもっと曖昧です。大事なのは、自分が何を望んでいるのか、どんな価値観に基づいて政治に向き合うのかを考えたうえで、候補者や政党を選ぶことではないでしょうか。

そして、その価値が実現されたのかどうかを自分なりに検証すること。その結果、満足できないのであれば次は別の人に投票すればいい。何も大それたことを求めているわけではなくて、最初は「なんとなく違ったな」くらいでもいいと思うんです。

だから私は、主権者教育について話すとき、よく「選挙の前にやっていては遅い。選挙のあとにやらないとだめだ」と言っています。投票して終わりではなくて、そのあとに「結果をどう思ったか」を話す必要がある。本当は1年後、2年後に、自分が投票した政治家がいまどうしているのかを確認することもやったほうがいい。けれども、社会では投票率というKPIが設定されているから、主権者教育もその数字に紐づけて論じられます。

【朱】なるほど。具体的で小さくて、そして非常に重要な「凡庸な結論」ですね。

【谷川】でも、やはりそれが大事なんですよね。逆に言えば、「凡庸な結論」に帰着しないと、具体的な事柄に地道に取り組むことの大切さは容易に見落とされるんだと思います。それを忘れたら、善悪二元論や終末論のような極端で浮ついた想像に絡めとられかねません。

 

「小さく失敗をする」大切さ

【朱】主権者教育について、選挙という行動のあとにフィードバックするべきという指摘は、とても納得感がありました。ただ同時に重要なのは、投票行動を振り返るには、自分がどういう理路で投票したのかを自覚していなければならない、ということです。

いまであれば、ChatGPTに聞くなりメディアのボートマッチを使うなりして、自分の主張に合っている候補者や政党を選べてしまうわけですよね。それらに任せて投票した場合、間違っていても「頼ったものが悪い」という話になってしまう。自分が何を間違えたのか、フィードバックが働きにくいんです。

要するに、私たちはいま、どんどん「間違うことが難しい」環境に身を置いているのだと思います。「小さな失敗」という話がありましたが、上手く間違えることがますます難しくなっている。

【杉谷】私は、第一歩としては「ChatGPTに聞いて投票したのはさすがにマズかったな」と思うくらいでいいと思うんです。そうやって、少しずつ行動が変わっていくことが大事ではないでしょうか。

【朱】そもそも間接民主主義という仕組み自体が、情報化社会とかなり相性が悪い面があると思うんです。当然ですが、自分の主張や価値観と完全に一致する政治家なんて、まず存在しません。小選挙区制ではなおさらでしょう。だから本来必要なのは、やはり「投票したあとにどうコミットメントをもつか」であり、当選したかどうかで終わりではなく、その後どう活動したのかをモニタリングする仕組みなのでしょう。

投票行動とは、消費財を買う感覚とは違います。本来は未来への投資であり、その意味では耐久財や不動産投資に近い。買って終わりではなくて、その後も運用や変化を見続ける必要があるのです。

【谷川】投資家が株を買って終わりではなくて株価や経営を見続けるように、本来は、自分が投票した政治家も追い続ける必要があるわけですね。

【朱】もちろん、それを個人が全部やるのは認知的にかなり無理がある。だからこそ、そこを支援するテクノロジーも必要になるでしょう。

【谷川】私は、まずは「なぜその人に投票したのか」を日記に書くだけでもいい気がするんですよね。「顔がかっこいいから」「直前にあのニュースを見たから」とか最初の理由は軽薄でもいい。とにかく、そのときの自分の判断を書いておく。そして次の選挙のときに、「前回、自分はなぜこの人に入れたんだっけ」と見返してみる。テクノロジーを活用することも大事ですが、そういう小さな実践も選択肢に入れたほうがいい。

【杉谷】要するに、自分はどんなナラティヴやエビデンスに基づいて投票したのかを覚えておこう、ということですね。そして、それらに基づいて語られていた政策が本当に実現されたのかを、そのあとに検証していく。

【谷川】杉谷さんが冒頭でお話しされていたように、エビデンスにせよナラティヴにせよ、どちらも社会に必要です。それらを使って議論するとき、忘れてはいけない前提が「私たちは意見が違っても同じ社会を構成している仲間なんだ」という感覚です。最終的にはノーサイドである、という共通認識ですね。

ロバート・B・ライシュが『コモングッド』(東洋経済新報社)で扱ったのも同じ話で、アメリカの民主党・共和党両方が相手に勝つために何でもやった結果として、「自分たちは同じ国を支えている仲間だ」という感覚を壊してしまった。この状態では、民主主義だけでなく、まともな経済を機能させることも難しい。いま、その感覚の修復が必要なのだと思います。

【杉谷】最近の知識人のSNSを見ていると、「あいつらとはわかりあえない」という方向に人を導くような発信をしている人が散見されます。私はその風潮に危機感を抱いていて、たとえば「もう世界は終わりつつある」などと唱える識者は、個人的にはそうしたラディカルな思想も大切だと思う一方で、そうした伝え方で本当によいのかと勿体なく感じてしまいます。本来であれば、彼らだって、よりよい社会をめざして発信しているわけですよね。そうであれば、人びとを変に煽るのではなくて、どう伝えれば社会をポジティブな方向に動かせるのかを考えるべきでしょう。

【朱】結局のところ、小さくできることを、淡々と積み重ねる。それがまずは大事なのでしょうね。

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