
「エビデンス」という言葉が世間に飛び交うようになって久しい。
ありとあらゆる局面で、「それはエビデンスがあるんですか?」といった、「煽り」のような文言を見かけないだろうか。
しかし、エビデンスがありさえすれば、全ての物事が簡単に片付くかというと、話はそう単純ではない。
本稿では、EBPM(Evidence Based Policy Making、エビデンスに基づく政策形成)を専門に研究されている岩手県立大学准教授の杉谷和哉氏に「マクナマラの誤謬」について解説して頂きます。
※本稿は、杉谷和哉著『エビデンスの罠』(PHP新書)から、一部を抜粋・編集したものです。
質の高いエビデンスを積み重ね、それに基づいた政策をつくり、意思決定を改善していけば、問題は解決できるだろう──このような発想が陥る罠を語る上で、欠かせない人物がいる、ロバート・マクナマラである。
靴卸業会社の営業部部長の父親をもつマクナマラは、1916年にサンフランシスコで生まれた。マクナマラの母親は厳しく彼をしつけ、競争に打ち勝つことが正しいと教え込んだ。当時の学校には日本人を含めた移民が多く、マクナマラは母の教えを守るべく、多人種間での競争に勝つために必死で勉強した。ハーバード大学のビジネススクールに進学すると、会計学の才能に目覚め、高い能力を発揮するようになった。
第二次世界大戦が始まると、マクナマラは米国陸軍へ入隊した。それと軌を一にするかのように、当時陸軍では統計を用いた戦略立案や、軍需産業のコントロールといったイシューが重視されていた。マクナマラはその才を買われ、陸軍が開始したプロジェクトの中心的な人物として頭角を現していく。
マクナマラの戦争への貢献の一つが、戦略爆撃の立案である。彼は得意の数字を用いたシミュレーションによって、どの地域を爆撃すれば最も効果的に敵にダメージを与えられるかを割り出すことに成功した。これらの知見は、日本の都市への爆撃にも応用された。
第二次世界大戦が終結した後、マクナマラは上司の売り込みもあり、自動車メーカーのフォード社に幹部候補生の位置づけで入社する。当時のフォード社は同族経営の会社ということもあり、旧態依然とした経営が幅を利かせており、ライバル会社のゼネラルモーターズに水をあけられていた。マクナマラをはじめとした、統計に秀でたチームは当時、「神童(ウィズ・キッズ)」などと呼ばれ、フォードの経営を急速に近代化していくことで、ライバル会社との競争を勝ち抜こうとした。
結果としてフォード社の業績は回復する。この会社経営の成功に、マクナマラをはじめとした「神童」たちがどれくらい貢献したのか、実のところ議論の余地がないわけではないのだが、いずれにしてもマクナマラはその名声を大いに高めることに成功した。同族経営だったフォード社にあってマクナマラは、一族以外の者としてははじめて、社長に就任することになる。
マクナマラが社長に就任して一年も経たないうちに、大きな転機が訪れた。1960年に米国大統領となったジョン・F・ケネディが、マクナマラを国防長官に任命したのである。
ケネディがマクナマラを国防長官にした理由については、いくつかの要因が指摘されている。ケネディは自分の知見が、特に安全保障政策分野については他分野と比して弱いと自覚しており、信頼のたるベテランを据えたいと考えたのだと一説には言われている。外交政策の中枢に長年関与してきた第一候補へ打診するも断られたケネディは、代わりにマクナマラを推薦されたのである。
フォード社の社長として順風満帆な人生を歩みだしていたマクナマラは、ケネディからのオファーを一度は断った。マクナマラは、自身が安全保障の専門家ではないと自覚しており、大統領の期待に応えるのは難しいと考えていたようだ。なお、収入面については圧倒的に下がることになるのだが、マクナマラを含むのちの関係者の証言によれば、その件については本人も家族も、さほど気にはしなかったようである。
この時、ケネディがマクナマラに提示したのは、財務長官の職と国防長官の職のどちらかであった。マクナマラとしては財務長官よりも国防長官の職に関心があったようである。これに対してケネディは、「大統領になるための学校はないし、自分もそこを出ていない」という趣旨の返答をしたとの逸話が残っている。これはケネディの人柄を表す有名なエピソードとして今日でも語り継がれており、マクナマラはこうしたケネディの気さくな人格に好感を持ち、オファーを引き受けることにしたそうだ。
国防総省の長官に収まったマクナマラは、フォード社での経験を活かして国防政策全体の合理化に取り組むことになる。その一環として導入されたのが、PPBS(Planning Programming Budgeting Systems)である。
PPBSとは、事前シミュレーションによって政策の効果を把握し、それに基づいて適切な予算配分を決定するという企てであった。当時、国防省を中心に導入が試みられたのだが、さまざまな要因によってうまくいかなかった。
PPBSのもたらした教訓はいくつもあるが、中でも重要なものの一つが、現実の不確実性があまりに高いため、完璧なシミュレーションが難しい点である。「想定外」という言葉が、大規模な災害が起きるたびに繰り返されるが、現実が理論を追い越すのは珍しくない。どれほど透徹した理論があろうと、充実したデータセットがあろうと、未来を完全に見通すのは不可能なのだ。
マクナマラは国防総省の長官の座にあって、このように大小さまざまな成功と失敗を経験するのだが、中でも後世まで語り継がれる巨大な「失敗」の一つがヴェトナム戦争である。
ヴェトナム戦争は、ケネディ大統領の時代に始まった。マクナマラはヴェトナム戦争を指揮するにあたって、データを重視した戦略を組み立てることを強調した。その中で彼が掲げたのが、「ボディー・カウント」と呼ばれる方法である。これは、敵の戦死者数を計測したもので、戦況を適切に把握するために用いられた尺度の一つである。マクナマラは自身の回顧録で次のように述べる。
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私はハーバードの大学院時代以来、一つのルールに従ってやってきました。ある目的と、それをやり遂げる計画を考え出すだけでは不十分である。その目的を達成しつつあるかどうかを判定するため、計画(の進行度)を監視しなければならない、というのがそれです。もし計画が達成されていないことが発見されれば、計画を修正するか、目的を変更するかです。(味方の進出度を示す)前線といった確たるものを追跡することは、不可能かもしれませんが、成功か失敗かをほのめかすような変数を見つけることはできるだろうと、私は確信していました。そこで我々は、北ヴェトナムで破壊された目標、ホーチミン・ルートを南下する交通量、捕虜の数、捕獲した兵器の数、敵の戦死者数(ボディー・カウント)などを計測したのです。
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マクナマラによれば、敵の損耗率と味方の損耗率を比べた時、ある一定のライン=損益分岐点を超えれば、戦争に勝利することができるとの想定があった。「損益分岐点を超える」とは、敵(この場合は北ヴェトナム)がこれ以上戦争を続けることができないほどに戦力を失うことを意味している。同時に、米軍ならびに味方(この場合は南ヴェトナム)の損失も測定しておくことで、戦況の把握ができる、というのがマクナマラの言い分である。
しかしながら、我々が知っての通り、ヴェトナム戦争において米国が勝利を掴むことはなかった。理由はさまざまあるが、マクナマラ自身は北ヴェトナムの粘り強い抵抗の背景にあったナショナリズムの軽視などを要因として挙げている。北ヴェトナムが膨大な犠牲を出しながらも戦い抜くという、「非合理的」にも思える選択を行なった要因についてマクナマラは勘定に入れ損ねたのであった。
ナショナリズムや愛国心といった要因は、数字には表れにくい。このため、数字に基づく要因のみを扱うことになるが、これが過ちの原因になるのだ。このように、測定可能な概念にのみ執着するがあまり、大きな過ちを犯すことを、社会学者のダニエル・ヤンケロヴィッチは「マクナマラの誤謬」(McNamara Fallacy)と呼んだ。
「ボディー・カウント」の問題はこれだけではなかった。マクナマラが導入した方式は「業績測定」と呼ばれるものである。一般的な民間企業のほとんどが、従業員の業績を測り、それに応じた報酬を与えるマネジメントを行っている。こうしたマネジメントの方法を「業績管理」などと呼ぶが、マクナマラはヴェトナム戦争においてこの方策を導入した。多くの敵兵を殺した部隊に対して多くの報酬を与えたり、休暇を増やしたり、支給される物資の質を上げたりしたのである。
インセンティヴの設計を工夫し、人々の行動を促す手法は、民間企業に限らず公共政策でもしばしば用いられる。人々に行動を強制せず、促すことで行動変容を仕掛けるインセンティヴは、多くの場面で用いられがちだ。
結論から言えば、マクナマラの目論見は全くうまくいかなかった。まず起きたのが戦果の水増しである。これは単純に、報酬が欲しくて殺害した敵兵の数を実態よりも多く報告したという側面もあるのだが、ヴェトナム戦争における、ある種の条件も関係していたので補足が必要だ。
ヴェトナム戦争において米国はゲリラに苦しめられたことで知られている。民間人に扮装して村々に潜伏したヴェトコンが、突如として兵士に襲い掛かるのである。米兵のメンタルは猜疑心に蝕まれ、民間人の虐殺が発生した。こうした事態は多くの戦場でも見られることで、民間人の虐殺が生じる原因の一つとして知られている。ヴェトナム戦争の場合、この条件が数値目標と重なって事態の悪化を招いたと言える。
たとえ意図的でなくとも、村を丸ごとナパーム弾で焼き払うなどの大雑把な作戦が実行に移され、大量の民間人が巻き添えになって死亡する事態が多発した。その民間人の死体を戦果として報告するのである。結果として実態のない戦果の水増しがあちこちで起きて、米国政府中枢にあがってくるデータはとんでもなく肥大化したものとなった。
数字の上ではたくさんの敵兵を殺しているので「圧勝」である。しかし、それらの数字の中には多くの非戦闘員も含まれていた。マクナマラをはじめとした米国政府は、このような誇張されたデータに基づいて戦争を進めていたわけである。
更新:05月18日 00:05