
エビデンスを重視するのか、あるいは批判するのか――。近年の日本社会で繰り返されている議論だが、本来は二者択一で考えるべきテーマではない。6月に共著『増補 ネガティヴ ・ ケイパビリティで生きる』 が刊行された三氏が、 エビデンスとナラティヴとの賢い付き合い方について論じ合う。(構成:編集部)
※本稿は、『Voice』2026年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
【杉谷】今回、私は「数字やエビデンスにあまり踊らされるな」という内容を扱った『エビデンスの罠』(PHP新書)という新著を出しました。類書は山ほどありますが、私自身はエビデンスと政策の関係を研究してきた人間なので、業績の管理や測定の問題なども絡めながら現代社会を広く論じることを意識しました。
もう一つ意識したテーマが、いわゆる「アンチ・エビデンス論」でした。昨今、「エビデンス重視ばかりで息苦しい」「専門家は信じられない」といった声が聞こえてきます。そのうえで、物語や個人の経験のようなもの、つまりはナラティヴが大事だと言われている。私自身はその考えに同意なのですが、だからといってエビデンスを完全に無視してよいはずはなくて、現に世の中にはフェイクがあふれているわけです。
日本社会では、エビデンスを重視するのか、あるいは批判するのかという二つに引き裂かれている状態が、ここ数年ずっと続いているような気がします。そのような状況を、お二人はどのように見ていますか。
【谷川】杉谷さんは本書の序盤で京都大学・吉田寮での実体験を紹介しながら、「エビデンスの信奉は良くない」としつつ、「エビデンスの単純な否定も良くない」と指摘したうえで、それを「凡庸な結論」と表現しています。政治やSNSで極論が主流化するなかで、バランスのとれた議論を構築して聞いてもらう凡庸さが、ラディカルに見える時代なのかもしれないと思いました。
世の中の言説を見ていても、エビデンスへの肯定性が強まってきましたが、ここで肯定される「エビデンス」は、大抵の場合「自分にとって都合の良いことを証明してくれるもの」を指していますね。都合が悪い意見や提案にはエビデンスを問い、都合が良い考えには、遮二無二データを示すばかりで、そのエビデンスの妥当性やほかのデータとの整合性を気にする視点はありません。エビデンスや専門家への信頼に基づいて、人びとはエビデンスを肯定しているとは思えないんです。
【杉谷】専門家は基本的に信頼しないけれども、自説を支持してくれる専門家のことは盲信する。そんな人が増えているのでしょう。陰謀論にコミットしている人たちがその典型で、「専門家は信用できない」と言っているにもかかわらず、「あの先生は海外の大学に留学して研究員まで務めた立派な方だ」と平気で話す。
【朱】私は哲学者であるとともに、データビジネスの従事者という立場からも本書を読みました。EBPM(エビデンスに基づいた政策立案)が流行って以降、「政策にも科学を」などのフレーズが使われてきましたよね。EBPMについて、政策においてもKPI管理をして、PDCAを回して成果をあげるものだと定義するならば、それはまさしく政治にマーケティングの方法論を適用するという話でしょう。
そのマーケティングの世界では、データに基づいて意志決定する「データドリブン」という考え方が定着して久しいです。だからこそ近年では、統計的につくられたペルソナは実在の顧客像とはどうしてもズレるので、むしろ特定の一人の顧客を深掘りして仮説を立てる「N1(n=1)マーケティング」も出てきました。杉谷さんが紹介されたエビデンスとナラティヴを巡る議論について、似たような変遷がマーケティングの世界ではすでに起きていたのです。
実際、マーケティングでデータドリブンな手法が広がった結果、多くの企業は「測れるもの」ばかりを追うようになりました。クリック数や購入数などのポジティブな行動は、簡単に数値化できますから。
一方で、「買わなくなった」「反感をもった」などのネガティブな変化は測りづらい。かつてはアンケート調査で企業や商品の好感度が長期的に追われていましたが、いまは瞬間的なアクションが重視されます。そうして成果が見えやすい新規顧客の獲得ばかりに注力すると、過激な広告やアテンション狙いの施策に傾きやすくなり、ブランドが毀損されて既存客が離れていく。
その結果、新規獲得効率は上がっているにもかかわらず、ブランド全体の売上は落ちてしまった――。そんな現象が起きるわけで、だからこそ「N1マーケティング」が提唱されたのです。
私は、昨今の政治の動きを見ていると、これと同じ過ちが繰り返されつつあると危惧しています。短期的に可視化しやすい「新規の支持」ばかりを追い、刺激的なメッセージを発信する。マーケティングの世界が踏んだ轍を、政治の世界も踏もうとしているのはないでしょうか。
【杉谷】私は今回の本を書くうえで、マシュー・スチュワートの『マネジメント神話』(明石書店)などを参照しましたが、マーケティングやマネジメントなどさまざまな領域で、朱さんがいまお話しされたような失敗が繰り返されてきたのでしょう。政策の世界でも、研究者が領域の異なる民間企業の取り組みをきちんと参照してこなかった残念な歴史があります。
【谷川】そもそも人間は反省を活かせない生き物なんでしょうね。大事なのは、「エビデンスには必ず条件や限界があることをふまえて理解する」という、凡庸で単純な話だと思うんです。この手法で扱える範囲はここまでだ、という留保を込みで考える必要がある。
サミュエル・W・フランクリンの『クリエイティブという神話』(河出書房新社)には、創造性をアイデアの数で測ろうとする立場が出てきます。ブレインストーミングが典型ですが、「たくさんアイデアを出せる人ほど創造的だ」と考えられた。創造性は本来もっと広い概念なのに、数分あたりのアイデア数の問題になったわけで、十年かけて何かを生み出すような創造性は視野の外です。結果として、「ブレストをすると創造性が高まる」というわかりやすい結論だけがミームとして広がった。
人間は大抵の場合、細かな留保や、繊細な文脈ごとには知識を伝承しないということでしょう。付帯条件は抜け落ち、「結局こういうことらしい」という圧縮されたナラティヴやミームとして、知識は流通してしまう。だからこそ、過去の失敗や反省はなかなか活かされないのだと思いますし、他領域の話ならばなおさらです。
【谷川】今回の杉谷さんの本では、ロバート・マクナマラのような「エビデンス主義」の象徴とされる人たちが、じつは強いナラティヴや情動によって動いていたことが紹介されていますよね。しかも、その支持者もまた、彼らの合理性や科学性ではなく、その背後にある物語や神話に共鳴していた。「データがあるから正しい」という考えは、情動的に駆動されて生まれていたわけで、そこを描くのが本書の重要な点だと思いました。
【杉谷】数字で伝えられることと、ナラティヴで伝えられることは、やはり違うんですよね。数字は一見すると簡明に見えるのですが、実際にはそれだけで伝えられることはそれほど多くない。人の心を動かすには、どうしても物語が求められる。ですから、私はエビデンスもナラティヴも社会に必要だと思っています。ただし同時に両者には、それぞれ別の危うさもある。
【朱】エビデンス主義については、よく「属人化を避けましょう」というスローガンで語られますよね。マーケティングやデータビジネスの世界でも、データドリブンな手法が広がるなかで同じことが起きました。ただ実際には、そうしたスローガンを掲げた人たち自身が、自分たちのポジションを築くうえでそれを利用していた側面がある。
ビジネスでは、ブランド担当者が3年程度で異動することが珍しくありません。すると極端な話、その3年間だけ成果を出せばいいわけです。データドリブンな手法を使えば、クリック率や顧客獲得効率などわかりやすいKPIは上げやすい。その裏で、じつは既存客が離れていたとしても、都合の良い数字だけを切り取れば「この指標では何%成長しました」と容易に示せます。
つまり、エビデンスを重視する人たちも、一見すると属人化を避けているようでいて、実際には「データを使いこなせる科学的マーケター」というブランドをつくることで自分たちの価値を高めている面がある。そこには決して純粋な客観性だけがあるわけではないのです。善し悪しは別にして、自分だけが知る情報をもとにナラティヴをつくり、自身の価値を高めようとする人間だっているでしょう。
【谷川】先ほど紹介した『クリエイティブという神話』にも似た話が出てきます。広告業界で「創造性こそ重要だ」と言い始めた人たちは、不況になって広告費が削られたとき、「なぜあなたたちにお金を払う必要があるのか」と問われて、「私たちに創造性があるからだ」と説明したんですよ。だから悪いというものでもないのですが、自分たちの立場を守るナラティヴではある。
もちろん、こうして議論している私たち自身も含めて、完全に中立な言葉なんて存在しない。どんな立場にも必ず物語が入り込んでいると考えたほうがいいんだと思います。
【朱】ここで議論したいのが、先ほども触れた政治のマーケティング化についてです。政治や政策の世界において、マーケティングのように短期で「成果」を出すために、安易に数字を稼ぐような施策を行なわれたら困りますよね。そこに、政治の世界にマーケティングの論理を持ち込む危うさがあると思うのですが、公共政策が専門の杉谷さんはどう考えますか。
【杉谷】いま政治では、既存の政党や支持組織が弱体化し、既得権益批判が非常に強くなっています。そのなかで、新興政党は「自分たちは、しがらみから自由だ」と訴えている。ただし本来、政党が中長期的に支持を維持しようと思えば、どうしても地域組織や支持団体など、ある種の"しがらみ"は必要になる。
だからこそ、たとえば参政党も、実際には地方のネットワークを丁寧につくっているわけで、彼らは極めてオーソドックスな手法で政党を運営しています。同時に「自分たちは既存政党とはまったく違う」というマーケティングを仕掛けているのであり、つまり古典的な政党組織をつくりながら、見せ方としてアテンション・ポリティクスをやっている。
むしろ最近、目先の利益に固執し、派手に花火を打ち上げる戦略をとった政党は、中道改革連合ではなかったかと私は思っています。彼らはサプライズで一気に局面を変えようとした結果、既存支持層を手放してしまった。言うなればアテンション型の政治に引き寄せられた結果大敗したわけで、いまだに立ち直れていません。まさに「マーケティングの罠」に巻き込まれてしまった事例でしょう。
【朱】いまのお話を聞いていて再認識したのは、データドリブンな手法には「向いている商材」と「向いていない商材」があるということです。2,000円の商品であれば、一つの広告を見て勢いで買うこともあるでしょう。でも、2,000万円の高級車となると、「この広告を見たから買いました」と単純に説明することはほとんどできませんよね。そのとき、「一つの施策が一つの効果を生む」という発想自体に、ある種の誤謬が生まれるんです。
ただ、現実として世の中には、その単純な因果関係が成立しているように見えやすい「商材」もある。だからこそデータドリブンな手法が説得力をもつわけで、これは政治の世界にも当てはまる話です。投票行動は「風」で動くこともあるので、一見すると「この施策が効いた」と言えてしまう。
けれども、政党への信頼や長期的な支持は本来、短期的な施策と一対一で結びつくものではないはずです。中道改革連合で言えば、「測れないもの」に対する慎重さを欠いていたのかもしれません。
【杉谷】政治とは結局「信頼」や「ブランド」の世界なのだと思うんですよね。中道改革連合が有権者にとってわかりにくかった理由の一つは、立憲民主党が政権与党だった公明党と組んだことでした。
中道改革連合の斉藤鉄夫共同代表(当時)は、菅義偉元首相の不出馬表明に際して「われわれは菅氏の思いもつなぐ」と発言しました。しかし立憲民主党は当時、菅政権をかなり強く批判していたわけです。つまり、内部で足並みが揃っていないまま「アテンション」で一気に局面を変えようとしてしまったわけで、有権者からすると理解が追い付かなかったはずです。
結果、立憲民主党と公明党が積み上げてきたブランドを「賭け金」として投入し、すべてを失ってしまった。朱さんのご指摘のとおり、政治はデータドリブンな手法だけでいくと危うい。
【谷川】そもそもマーケティングは「誰が何を買うのかわからなくなった社会」で発達した技術ですよね。それは政治で言えば、無党派層や浮動票が増えた状況に相当する。マーケターは、不確かな状況を「確かなもの」にしたいからセグメントを分けたり、データ分析したりする。マーケターも政治家も、そうすることで市民=消費者の実情に近づこうとするけど、かえって現実の人びとから遠ざかっているのかもしれないですね。
更新:07月10日 00:05