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【22世紀の人間像研究会】これからの秩序との向き合い方――更新か、それとも虚無か(ディスカッション・2)

22世紀の人間像研究会

ノバ広場の建築士会館のピカソの壁画  ノバ広場の建築士会館のピカソの壁画

既存の秩序のなかでもがくか、新しい秩序を自ら打ち立てるか。どちらの選択肢もないとしたら、人はどこへ向かうのでしょうか。日本思想史研究者の先崎彰容さんによる「秩序との向き合い方――更新か、それとも虚無か」の話を受けた「22世紀の人間像研究会」メンバーによる座談会を、3回にわたってお届けします。(構成:中嶋 愛)

 

ピカソの文脈形成力とデュシャンの文脈破壊力

【為末】先日、ある人から現代アート界の構造を説明してもらいました。簡単に言うと、アートが作家と作品だけでは成立せず、意味づけと価値づけによって社会的に成立するという話です。その構造というのは、三者から成り立っている。すなわち、作品を生み出すアーティスト、作品の意味を文脈に位置付ける批評家やキュレーターなどの「テキストを書く人」、作品の価値を市場で位置付けるオークションです。

この三者が、作品を生み、それに意味を付与したうえで、交換可能な価値に変換するという構造です。これは循環構造になっていて、権威ある人が「これはいい」と言ったものに価値が付き、市場が「そういうことですね」と認められると、転売するときにさらにテキストが書かれて作家の地位が上がり、次の作品も高く売れて転売の受け皿になるセカンダリーマーケットが形成される。美術館などが購入することで、さらに価値が上がる。

話が長くなりましたが、このテキストを書く人、オークションを仕切る人、作品を売り買いする人は、ヨーロッパの白人男性がほとんどなのだそうです。この人たちが、作家の生み出す作品の価値を決める文脈をつくっている。

【中嶋】権威とか秩序を作っている人たち、ということですね。

【為末】ピカソの作品がなぜあんなに高い値段になったかも、この構造で説明できるそうです。ニューマネーがアメリカで生まれてきたときに、アメリカ人はお金はあるけどヨーロッパほど歴史がないということにコンプレックスがあった。そのヨーロッパからきたピカソの作品を意味付けして買うことで、ヨーロッパに対抗していった。

ピカソの価値はそういう文脈のなかでどんどん上がっていった、という話を聞いたのです。ピカソが新しい権威になっていったんですね。一方でアート界では、価値が固まりそうになったものをひっくり返すこともやる。たとえば、デュシャンという人が出てきた。

【磯野】ああ、便器の人ですか。

【為末】そうです。デュシャンの「泉」という作品です。作品といっても、店で売っている便器にサインをしただけのものです。これが世に出た瞬間、何かがひっくり返った。

アーティストにとっては、今ある評価軸の中で成功するか、それをひっくり返したり壊したりしてデュシャンのような存在になるのか、というのは悩むところではないでしょうか。デュシャンになろうとしても、何の価値も残せない可能性もある。でも、一発当たれば歴史に名前が残るかもしれない。今ある評価軸のなかで認められようとした場合、一発当てるのは難しい。簡単に言うと、既にKPIが決まっている世界のところに身を委ねるのか、そうじゃない新ジャンルに賭けるのか。

ひっくり返すことに賭けるというのは、結構勇気がいりますよね。自分の人生が全く無駄に終わるかもしれないけれども、もしかしたら新ジャンルを作って、自分がその始祖になるかもしれない。今までの話で言うと、これがひょっとこ的な生き、なのかなと。そういう当てはめでいいのか、わからないですが。

 

死の無意味性を描いたシェークスピア

【先崎】いや、そこは当たっていると思います。柄谷行人もマクベス論を書いていて、そのタイトルが『意味という病』というんですね。そこで言っている「意味」が、今の為末さんの話にあった「こういうふうにやったらこういうふうに売れるよね」という文脈なのです。デュシャンは便器を作品に見立てて、その文脈を壊したのですね。ここに、現代アートの一つの醍醐味があるわけです。

前回、高梨さんが「マクベスはキリスト教的な秩序」という話をされましたが、柄谷のマクベス論では、キリスト教的な戯曲と、シェークスピアの戯曲は全く違うジャンルであるとしています。キリスト教的な戯曲は、神の救い、つまりある種のハッピーエンドに向かって話が進んでいく。つまり、意味がある。一方、『マクベス』を含めシェークスピアの悲劇は、人間は悲惨に死ぬ時は悲惨に死ぬというだけで、そこには「意味」がないんですよ。

【為末】なるほど。

【先崎】決定的に無意味なんです。これが『マクベス』の面白いところなのだと、柄谷は書いています。さきほど為末さんは、現代アートの世界で名を残そうとして文脈から外れたことをしたときに、一発当たるか無価値で終わるか、という話をされましたよね。

【為末】はい。「賭け」ですね。

【先崎】今日の話で言うと、その賭けをつかさどるのが魔女の役割で、魔女たちが無価値の方に振り切ると、究極の虚無主義になると思うのです。既存の文脈のなかで自分にとっての究極の成功を目指すマクベスは、気が付いたら全て失う賭けをさせられていた、と。

だけど一方で、大儲けできる可能性も秘めているのが賭けなのであって、それが新しい物の見方や、社会の活性化にもつながり得る。シェークスピアの悲劇は、その賭けがことごとく無意味に終わるという話なんですね。

【為末】いやー、面白い。

 

「自由と民主主義」はお花畑である

【金子】凡庸な喩えかもしれませんが、よくトランプはトリックスターだといわれますよね。オレン・キャスのようなMAGA派の思想家は、トランプは秩序を壊し、その後に来るJ.D.ヴァンス副大統領的なものが新しい秩序を打ち立てるのだ、という議論をしています。

すると、トランプは硬直化した黒式尉の世界を活性化するひょっとこ的な存在で、次の世代が新しい秩序をつくる、ということなのでしょうか、秩序が壊されたところから、本当に次の秩序が生まれてくるのか。先ほどのマクベスの話ではないけれども、虚無のほうに近づく可能性のほうが高いような気がします。

【先崎】今日は文学の話をするか、今と似ていると言われる100年前話をするかで悩んだのですが、実はこの二つはつながっています。

100年前、第一次世界大戦から第二次世界大戦に入っていくときに、外交官であり分筆家だったE・H・カーという人がこんなことを言っています。「自由と民主主義という価値は19世紀的な価値にすぎないのだ」と。彼は国際政治におけるリアリズムの源流と言われているのだけれども、これは極めて鋭い指摘だと思います。

当時は1920年代ですから、19世紀的価値というと、たかが20年前の話をしているわけですね。自由と民主主義というのを絶対的な価値だと考えたウッドロー・ウィルソンは、国連まで作ったけれども、こんなものは西ヨーロッパにしか通用しない価値であって、ユートピア的であるとしてリアリズムの視点から批判している。リアリズムというのはたんなる現実主義ではなくて、「現実はそんなものじゃない」と相手の夢を叩き壊す立場です。今回の話でいうと、マクベスの魔女のような立ち位置です。

ただ、カーは叩き壊すだけではなくて、こう付け加えるのです。

 

今日のユートピアをリアリズムの武器でもって粉砕した暁には、われわれはさらにみずからの新しいユートピアを築く必要がある。

 

では、新しいユートピアとは何だったのか。当時、独自の経済体制を敷いていたのは、ドイツと共産主義のソビエト連邦です。カーはこれを肯定的に評価していました。結果的にその時代診察は大きく間違っていたわけですが、少なくとも当時は、理念を巡るこうした議論が存在していました。

最近でも、「自由と民主主義は限界だ」としばしば言われていますが、100年前よりしんどいのは、より選択肢が少なくなってきていることです。もはや共産主義は誰も信じる人はいないし、強い統制経済を自由民主主義国が受け入れることはあり得ない。だから、ある種の理念不在の状況になっています。

この理念不在の状況に対する不安がいら立ちを生み、それがトランプの登場を促したのではないかと思います。

 

*本原稿は、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していく「22世紀の人間像研究会」の内容を記事化したものです。

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