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【22世紀の人間像研究会】これからの秩序との向き合い方――更新か、それとも虚無か(2)

先崎彰容(社会構想大学院大学社会構想研究科教授)

これからの秩序との向き合い方

人間社会は秩序によって維持され、秩序の破壊によって更新されてきました。秩序が大きく崩れるとき、分断や争いがおこります。20世紀の前半に、人類は史上最悪の戦争を二度にわたって経験しました。その戦争前夜と現代社会の様相が似てきているという指摘があります。

人間を考えるとき、秩序や権威というものとどのように折り合いをつけてきたのか、それがうまくいかないときに何がおきるのか。日本思想史家の先崎彰容さんと、折口信夫とシェークスピアの作品を軸に、二回に分けて考えていきます。(構成:中嶋愛)

 

出世志向の権化としてのマクベス

さて、ここから唐突に折口信夫からシェークスピアの『マクベス』まで話が飛ぶのですが、実はそれほど唐突でもないことが、最後までおつきあいいただけるとおわかりいただけるかと思います。僕は昨年、『批評回帰宣言』という少し重たい本を出したのですが、そこに書いた『マクベス』の論考が今回の話のベースになっています。

『マクベス』はシェークスピアの四大悲劇のなかでは、最も短くてわかりやすい戯曲です。主人公のマクベスはスコットランド王ダンカンに仕える武将です。このマクベスが戦いの帰りに、魔女たちから「いずれ王になる」という予言を受けます。

もともと出世欲にとりつかれた男なので、喜んで妻にそのことを話す。すると妻もその気になってマクベスをそそのかし、二人で結託して王を殺してしまいます。このあと予言どおり王位についたマクベスですが、不安にかられ、疑心暗鬼になって破滅に向かっていくという悲劇です。

このマクベスという主人公は、ひたすら上昇志向にとりつかれた存在として描かれています。少し前の日本で言えば、東京大学の法学部を出て、官僚になって、政治家になって、大臣になる――という典型的な出世街道がありましたが、それを何の疑いもなく邁進していくようなイメージです。出世街道というのは既存の社会秩序の一部ですが、その秩序に対して何の疑いももたない人間、それがマクベスです。

 

王座を目指す者を嘲け笑う魔女たち

その対極として、魔女という存在が出てきます。魔女というと女性のようですが、実は女性ではなくて両性具有の存在です。男性でありかつ女性であり、「○○らしさ」の境界にいる存在です。

イギリスの文芸批評家のテリー・イーグルトンは、『マクベス』という作品のなかで最も注目すべきは、この魔女たちの存在だと言っています。主人公のマクベスをはじめ、戯曲に登場する男性たちは、スコットランド王になるために陰謀や暗殺を企てます。王位こそが彼らの世界を構成する秩序の頂点だからです。

対照的なのが魔女たちです。彼らは秩序そのものを一笑に付します。わざと意味を反転させて「きれいはきたない、あるのは無い」と唱えながら、イモリの眼や犬の舌など得体のしれないものを煮込んだ大鍋の周りで踊っている。そうすることで、王座に執着する権力に「前向きな」男たちをばかにしているのです。

野望に急き立てられている人間は、現状に満足できず、さらに上を目指して心が休まることがない。むしろ出世していくほどに不安が増し、猜疑心にとりつかれていく。それを見て魔女たちは窮屈で滑稽な存在として嘲笑うのです。

 

行きつく先は全体主義か、虚無か

イーグルトンのマクベス論が現代に接続するのはこの後の分析です。マクベスと魔女に象徴されるような存在が最終的にどういう社会状況を生み出すのか。

まずマクベスのほうですが、この人間は王を殺して自ら王になってからも、常に不安にさいなまれ、疑心暗鬼にかられて、側近などを次々に暗殺していきます。独裁者が全体主義的な社会を作っていくのと同じメカニズムです。

次に魔女です。社会の常識を疑い、それを揶揄したりひっくり返したりする存在は、どんな社会にも、どんな時代にもいます。イーグルトンが鋭いのは、そうした魔女的な生き方が行き着く先を、究極まで突き詰めて考えているところです。それは、他人を批判や否定すること自体が目的化する社会であり、結局のところ虚無に陥るということです。

例えば、「人を殺してはいけない」という考え方に対して、「なぜ人を殺してはいけないのか」を究極まで突き詰めた場合、「それって絶対的な理由はないですよね」というところまで行ってしまいます。それが虚無です。それが行きつくところまで行くと100年前のナチスによる大虐殺になると、イーグルトンは言うのです。

つまり、おどけたりまじめな雰囲気を壊したりすることは、因習を打破したり、秩序に対して風穴を空けたりするという意味ではいいことかもしれないのですが、徹底した他者否定は、イーグルトンが言うところの「病的なまでの虐殺」をも可能にしてしまう虚無的な世界につながっているのです。

 

たしかに暴露は積極的な道化の一種である。それは、「思いあがった連中」つまり、マクベスの鼻をへし折りはするが、虚無的な世界へ危うく近づくことにもなる(中略)そこで問題なのは、健全なる因習打破の行いが病的な冷やかしに限りなく近づいてしまうことだ。(テリー・イーグルトン『シェイクスピア』(平凡社、2013)

 

ここでイーグルトンは、きわめて重要な指摘をしています。マクベスは、自分自身の権力欲にからめとられて破滅の道を突き進むのですが、このマクベスの上昇志向と不安を嘲笑する魔女にも、この悲劇の一因があるということです。過剰な暴露主義が、世界の「虚無」をあからさまにするとき、終わりのない他者否定につながっていく。それは戦争における他民族排斥のような凄惨な虐殺まで生むと、イーグルトンは言うのです。

 

私たちは社会を壊さずに更新していけるのか

さて、ここで前回のひょっとこの話に戻りたいと思います。折口信夫の日本文学の起源についての論考で参照された黒式尉は、権威の象徴であったということを思い出してください。黒式尉は秩序というものを担っているという意味では、マクベスに通じる存在です。

それに対して、小癋見のように無言で反抗する存在もいれば、ひょっとこのようにちゃかしたりおどけたりして権威を貶める存在もいます。

健全な社会を回転させるためには、ひょっとこのような役割も必要だけれども、それも行き過ぎれば魔女のようにただ単に他者を否定し、前向きな価値を作ることを一切拒否するような虚無的な社会をつくってしまうのではないか。それに対して、どう踏みとどまるか。道化や現実暴露以外の方法で、社会の閉塞から抜け出し、秩序を更新することはできるのか、ということがいま問われていると思います。

今回は今の社会を読み解く人間洞察につながるものとして、折口信夫の日本文芸論とイーグルトンのマクベス論をとりあわせてみました。

マクベスが生きている社会は、不安が連鎖する「近代システム」そのもともいえます。不安に閉じ込められた人間が、どういうやり方で精神的な安定を取り戻そうとするのか、そしてそれがどんな結末をもたらすのか、ということをここから考えていけたらと思います。

イーグルトンは虚無主義の最果てとしてナチスによるユダヤ人虐殺の話に触れていますが、それは100年も前の話ではないのです。僕は現代社会と100年前の社会が似ているという立場をとっているのですが、「22世紀の人間像」という本来ならば建設的な話の前に、僕たちが今結構危ない場所にいるということを確認しておきたいと思います。

 

*本原稿は、多様な領域の専門家とともに「人間とは何か」を問い直し、次の時代を切り拓く人間像を模索していく「22世紀の人間像研究会」の内容を記事化したものです。日本思想史家の先崎彰容さんにお話しいただいたこちらの内容は、後日掲載する「ディスカッション篇」に続きます。

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