
インテリジェンスなくして、危機管理は成し得ない。 民主主義社会において政府はいかに国民を守るべきか。 そして、国民一人ひとりは何を意識しなければいけないか―。 警視総監や内閣危機管理監などを歴任した米村敏朗氏と、 日本の危機管理研究の第一人者である福田充氏が徹底議論。(構成:編集部)
※本稿は、『Voice』2026年3月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。
【福田】昨年(2025年)10月に発足した高市政権は、国家情報局の設置やスパイ防止法の設立について議論を進めるなど、「インテリジェンス」の強化を打ち出しています。こうした組織や法制度の必要性を考えるうえでは、そもそも「インテリジェンスとは何か」という根本的なテーマから論じるべきだというのが私の問題意識です。警視総監や内閣危機管理監などを歴任された米村さんは、わが国の危機管理におけるインテリジェンスの必要性をどのように考えていますか。
【米村】私はインテリジェンスとは、国家の安全保障上、必須要件だと認識しています。そして「インテリジェンスなくして危機管理なし」です。警察庁で働いていた当時から強調していたのが、危機管理における「想像と準備」です。米国政府の統合参謀本部議長や国務長官を歴任したコリン・パウエル氏も、「There are no secrets to success. It is the result of preparation, hard work and learning from failure.(成功に秘訣などない、それは準備と努力、そして失敗から学ぶことの成果である)」という言葉を残しています。
準備のためには、そもそも起こりうる事態を想像しなければなりません。そして想像するためには、インテリジェンス(情報)が不可欠です。つまり、「想像と準備」は、インテリジェンスがあってこそ可能なのです。当たり前のことです。
他方で、情報はなかなか厄介な代物です。私の個人的な実感を申し上げれば、情報とは決して「事実」そのものではありません。「事実の投影」です。「幻影」という情報すらありますが、それは別としても、存在する事実に対して、情報源という光源から、光を当てて映る影が情報です。ですから光源の位置や光の射し方によって影、つまり情報は変わってくる。そうであるならば、事実をより正確に把握するためには、光源となる情報源は複数あったほうがよい。
ただしここで浮上するのが、個々の情報源から得られた情報を、いかに集約して分析するかという問題です。情報は収集、伝達、集約、分析があってこそ意味があります。情報がバラバラのままでは話になりません。現在の日本で、それが十分だと言えるでしょうか。
私が内閣危機管理監として官邸で働いていたときにも、危機管理上の具体的なテーマに応じて、各省庁の担当者に集まってもらい、それぞれの情報を共有しながら、活発な議論を行ないました。そうした普段からの「想像と準備」こそが、危機管理においては重要なのです。危機管理は、いざそのときになって初めてやろうとしても、上手くいきません。「想像と準備」という普段の延長線上にあり、その前提はインテリジェンスであることを、しっかりと認識する必要があります。
もう一つお話しすると、危機管理においては、情報はそれを読む「意志」と「能力」のある人に出会わなければ、ただの紙屑に終わります。福田さんもご承知のとおり、2001年の9.11同時多発テロ事件では、米国では「アル・カーイダ、飛行を学ぶ」という情報が事前にありました。これほど重要な情報はなかったのではないかと思いますが、しかしそれは完全に無視され、米国政府がその重大な意味に気付いたのはテロのあとのことでした。
ほかにもさまざまな情報を事前に摑んでいながら、それを適切に読む意志と能力に欠けていたために、悲劇を防げなかった。高市政権が国家情報局をつくること自体はもちろん歓迎しますが、人材の育成をはじめ制度設計についてもしっかりと考えるべきです。
【福田】私は危機管理とは四つの機能、すなわちインテリジェンス、セキュリティ、ロジスティクス、リスクコミュニケーションから成り立っていると考えています。この四つの機能のうち、スタートでありベースとなるのがインテリジェンスで、その意味において米村さんの「インテリジェンスなくして危機管理なし」というお言葉にはまったく同感です。では、先ほども問題提起した「インテリジェンスとは何か」についてあらためて考えると、現在であれば宇宙からの情報やサイバー空間の情報も含め、世界や日本のあらゆる情報を収集して、それを共有して統合し、分析して評価したうえで、政策立案に役立てるという一連の流れだと定義できるでしょう。
インテリジェンスとはもはや国家運営にまつわる話だけではなく、企業やスポーツの世界でも必要視されています。社会全体でインテリジェンスが求められている時代であるにもかかわらず、政府や官庁は十分に手をつけてこられなかったという表現が正しいでしょう。
【米村】一言で言うと、戦後日本は国家の危機管理において非常に躊躇していたように思うのです。これはやはり、先の大戦での失敗が大きな影を落とし続けたのでしょう。私は警視総監の時代に、当時都知事を務めていた石原慎太郎さんと食事をしながら二人で議論しましたが、「なぜ日本は、あの大失敗と言うべき戦争の過程をみずから検証してこなかったのか」ということが、つねに話題になりました。つまりは「learning from failure」がなかった。
【福田】具体的には、日本は先の大戦でどのような失敗を犯したとお考えでしょうか。
【米村】1939年8月に独ソ不可侵条約が締結されると、当時の平沼騏一郎首相は「欧州情勢は複雑怪奇」という有名な言葉を残して退陣しました。これに対して私も大学時代に教わった高坂正堯さんは、「この『複雑怪奇』という一語に、戦前の日本外交の失敗は現われている。国際政治が複雑怪奇であるのは当然のことにすぎない」と指摘しています。そして、その後の日本は右往左往の果て、日独伊三国同盟へと向かい、結局は状況主義に流れ、戦略的な確固たる意志もなくあの無謀な戦争に迷い込んでしまった。
この史実から導き出されるのは、岡崎久彦さんが幾度も強調されたように「戦略的思考がなかった」という結論です。それは日本人が明治維新以来もっていたインテリジェンスのセンスが、いつの間にかなくなっていた結果ではないでしょうか。さらに言えば、残念ながら現在に至るまで日本人の足らざる部分ではないでしょうか。
【福田】日本と比較したときに、第二次世界大戦の経験から学んでインテリジェンスを強化してきたのが米国でしょう。しかしその米国にしても、9.11という「大失敗」を犯してしまった。先ほどご紹介いただいたように、あのとき米国のFBIは国内で飛行訓練を受ける不審な中東系男性たちの存在を把握していました。「着陸方法は教わらなくていいので早く卒業させてほしい」と訓練で訴える若者たちの存在です。それに加えて、実行犯のうち何人かは職質や交通違反歴があったにもかかわらず、そうした情報や前兆を適切に集約・分析できなかったことで、テロを未然に防げなかったのです。
米国がその反省から着手した改革の手法は、大きく言えば、高市政権が始めようとしているインテリジェンスの構築と同じです。米国にもFBIやCIA、DEA(麻薬取締局)、あるいは国防総省のNSA(国家安全保障局)やNGA(国家地理空間情報局)、NRO(国家偵察局)など、10を超える機関からなるインテリジェンス・コミュニティがあって、かつてはそれぞれがバラバラに情報を収集して、政府にあげていました。その結果、9.11では情報が適切に共有や統合されなかった。そこで当時のブッシュ政権は、DNI(国家情報長官)を創設してすべての情報を集約するとともに、テロ対策などを任務とするDHS(国土安全保障省)をつくり、インテリジェンス活動を統合運用化および効率化していきました。
それでも2024年の大統領選挙中には、当時は候補者だったトランプ大統領への銃撃を防げず、事件後には大統領警護隊長官が辞任しましたが、これはローン・オフェンダー(特定の組織に所属せずテロなどを計画、実行する単独犯)には対処できていないという別の問題として認識するべきです。いずれにせよ、高市政権も米国と同じく情報を集約するメカニズムを整えるという問題意識のもと、日本のインテリジェンス・コミュニティを再編し、国家情報局を創設しようとしています。
【米村】ポイントは、いまお話しいただいたように「組織」でなく「メカニズム」をつくろうとしている点でしょうね。9.11テロは私が警視庁公安部長のときに起きましたが、事件について知った瞬間、アル・カーイダの犯行だと直感しました。実際、当時のブッシュ米大統領は、クリントン前大統領から政権を引き継いだとき、米国の国家安全保障の大きなテーマの一つがアル・カーイダの存在だとレクチャーを受けていました。
1993年2月、アル・カーイダの犯行でニューヨークの世界貿易センタービルで爆弾テロがあり、六人が死亡しています。このテロの首謀者は、9.11テロの計画立案者とされるハリド・シェイク・モハメドの甥ラムジ・ユセフでした。1998年8月には、ケニアとタンザニアの米大使館がアル・カーイダに攻撃されています。そして、そのあいだの1995年1月には、壮大なテロ計画である「ボジンカ計画」がありました。
9.11テロは、こうした一連の流れのなかで起きたわけで、しかも直前の7月から8月にかけて現場が収集した、さまざまなテロのサイン(兆候)となる情報は無視されました。以上の事実に鑑みれば、繰り返しになりますが、情報とはやはり、それを読む意志と能力のある人間や組織のもとに集まらなければ、何の意味もないことがわかります。
もう一つ重要な問題は、これは『フィナンシャル・タイムズ』編集長などを歴任したジリアン・テッド氏の言葉ですが、その属性上、サイロ化(孤立して連携されていない)するのがインテリジェンス・コミュニティの特性だということです。各々が自分の手法や問題意識のもとで情報を集めるため、「隣の人は何するものぞ」となるのは仕方ないのかもしれません。しかし、それではいざというときの国家の危機管理には役立ちません。そこで米国は、9.11テロの反省からメカニズムを改革したのでしょう。日本がその動きを参考にするのは、ある意味では当然の流れです。
【福田】私が日本の危機管理に関する議論で問題だと感じているのは、「危機管理」とは英語では「リスクマネジメント」と「クライシスマネジメント」の二つに大きく分けられますが、日本ではその区別がされておらず、曖昧に論じられていることです。危機に対して平時からいかに備えるかを考えるのがリスクマネジメントで、実際に危機が起きたあとにどう対処するかを考える事後対応がクライシスマネジメントです。両者をいかに相互作用させるかは大事な論点ですが、まったく違う概念であることは前提として認識する必要があります。
【米村】私は、危機管理とは一言で言えば平時の延長線上にあると考えていて、いかに日常的に情報を収集して分析するかが問われます。まさしく、いまご紹介いただいたリスクマネジメントの概念ですね。そして、そうしたリスクマネジメントの延長線上に、クライシスマネジメントがあります。
【福田】もう一つ、私がインテリジェンス活動で重要だと考えているのが、政府もしくは首相からの「リクワイアメント(要求)」です。すなわち、どんな情報を収集・分析するかをインテリジェンス・コミュニティに要求し、それをいかに政策立案や戦略に役立てるかは、まさに政治リーダーに求められる手腕でしょう。
【米村】リクワイアメントについては、結局はトップの意志や能力、そして器の問題に帰結するでしょう。元警察庁長官で田中角栄内閣を内閣官房副長官として支えた後藤田正晴さんは、「とにかく悪い情報をもってこい、良い情報は後回しでいい」とお話しされていました。私はこれこそ、トップに求められる態度だと思います。
危機管理とはまず、現実を直視するところから始まります。それも悪い現実です。「人間は見たい現実しか見ない」というジュリアス・シーザーの言葉には、危機管理の失敗の本質が潜んでいます。だからこそ、トップは率先して悪い情報に目を向け、そのうえでリクワイアメントするべきだし、情報を司る組織の責任者も同じ意識をもたなければいけません。
【福田】いまのお話でとても示唆的だと感じたのが、都合の悪い情報をなるべく上にあげようとしない組織や現場が実際にある、というお話です。おそらく日本だけの問題ではないでしょう。これは裏を返せば「インテリジェンスの政治化」と呼ばれる現象で、たとえばトップがリクワイアメントする際、進めたい政策にとって望ましい情報ばかり求めると、「結論ありき」のトップにとって都合のよい情報しかあがってきません。
【米村】おっしゃるとおりです。その失敗例の一つが米国で言えばイラク戦争でしょう。
【福田】あのとき、ブッシュ大統領は「フセイン政権が大量破壊兵器をもっているに違いない」と思い込み、先制攻撃でそれを排除したいという思惑からリクワイアメントしました。その結果、CIAがあげた誤った情報を根拠に戦争を始めた。まさにインテリジェンスが政治によって歪められてしまった典型例です。
【米村】イラクが大量破壊兵器を開発しているのではないかと疑い、トップがそれに関する情報を集めるよう要求すること自体は構いません。問題はそれに対するインテリジェンス・コミュニティのリアクションで、CIAのような組織が政治に引っ張られてしまって、結局「幻影」と呼ぶべき情報をあげてしまったことは、政治とインテリジェンスの関係を考えるうえで他山の石とすべきでしょう。日本に国家情報局を設立するのであれば、局長と内閣総理大臣はフラットにディスカッションできるような仕組みが必要です。
【福田】以上の議論は、インテリジェンスを担う人間の育成の重要性にもつながるように思います。この点はとくに日本が手をつけてこられなかった問題で、大学や研究機関などアカデミズム側の責任も問われるべきです。
私はかつて、米国のコロンビア大学に留学しましたが、向こうではインテリジェンスやストラテジー(戦略)の授業が普通にあります。学生や大学院生にとってCIAやFBIなどは人気の就職先でした。最近では傾向が変わってきましたが、それでもインテリジェンスを巡る教育環境は日本とは比較になりません。
更新:05月08日 00:05