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始皇帝の偉業が「東アジア経済成長の鍵」? 武帝が受け継いだ革新的システム

2025年04月11日 公開

玉木俊明(京都産業大学経済学部教授)

兵馬俑
始皇帝陵の兵馬俑

「物流」を軸に世界史を見ると、これまで見えていなかった新たな一面が見えてくる――!

なぜ東アジアはヨーロッパに先駆けて経済発展することができたのか? その要因には、始皇帝から武帝までの100年ほどをかけて整備された制度が重要な役割を果たしていたという。書籍『物流で世界史を読み解く』より解説する。

※本稿は『物流で世界史を読み解く 交易、移民問題から食文化の革新まで』より抜粋・編集を加えたものです。

 

春秋・戦国時代の経済成長

中国の史書『史記』によると、中国最初の王朝は夏王朝であった。その後、前16〜前11世紀の殷王朝、前11世紀〜前771年の(西)周王朝と続いたものの、前770年に周が洛邑に遷都したことをきっかけに、春秋・戦国時代となり、中国は500年以上にわたる争乱の時代に突入したとされる。

戦国時代のうちに鉄製武器が普及した。また鉄製農具や牛耕の普及により、農業生産が拡大した。農業や手工業が活発になったため、青銅貨幣が導入された。このように、春秋・戦国時代に経済発展が見られたのである。

秦は、こういう状況において中国の統一に成功する。すでに、中国の経済は世界的に見てかなり水準が高く、それを秦が受け継いだということになるであろう。しかも、秦はさらにその経済を発展させようと考えたのである。

中国統一時の秦の王は政(在位 前247〜前210年)であった。政は法家思想にもとづき、中国を統一した。度量衡を統一し、文字、貨幣を統一した。そして中央集権的な郡県制を採用し、さらに、単なる王ではない「皇帝」という地位についた。

始皇帝は、中国の経済成長を基盤として国家を統一した。秦では戦国時代に半両銭という中国最初の通貨をつくった。青銅貨幣は、銅と錫でできている。世界的に銅の産地は多いが、錫の産地はかぎられている。青銅貨幣が製造されたということは、すでに交通が発展していた可能性が高いのである。

中国の物流は春秋・戦国時代に盛んになっていったものと思われる。

 

現代にまでおよんでいる始皇帝の影響

始皇帝の偉業の大きさについて具体例をあげよう。秦によって前221年に中国が統一されるまで、中国には多数の通貨があった。それが、秦によって半両銭に統一されたことで、広域での取引がずいぶんと容易になったのである。

もし通貨の種類が多いと、両替に手間がかかる。そればかりか、両替商に手数料を支払わなければならない。両替のたびに、カネが実質的に目減りすることになる。統一通貨である半両銭の登場により、そうしたことがなくなったのである。

始皇帝によって、中国という広大な領土が単一通貨圏となった。そのため、春秋・戦国時代にすでにはじまっていた経済成長が、さらに加速されることになった。

しかも、中国の文字は篆書(てんしょ・小篆)に統一された。中国は現在も地域による発音の違いが大きな国であるが、文字は同じなので、簡単にコミュニケーションがとれる。そのもとをつくったのが、始皇帝なのである。

小篆は日本にも伝わり、われわれが使用する漢字の基盤となった。それにとどまらず、東アジア世界の共通の文字であったといっても過言ではない。小篆の導入により、東アジア世界、さらには東南アジアの一部を含めて、コミュニケーションは非常に容易になった。

さらに始皇帝は、郡県制という中央集権体制をつくった。春秋・戦国時代には、各地で諸侯が割拠していたので、中央政府からのコントロールが利く状況ではなかった。始皇帝は、それを中央政府が一括して管理するシステムに変えた。そのため、経済活動の障壁となるさまざまな無駄が省かれるようになったのである。

要するに、始皇帝の政策により、商業活動に付随するさまざまな費用が大きく低下したのだ。

始皇帝はこのように、非常に効率的な経済システムを確立したのである。中国の商品は、いわば単一市場で流通することになった。その市場は、国家の権力によってつくられたものであった。国家が市場に介入し、商品の流れ(物流)を促進したのである。このシステムは、やがて武帝に受け継がれることになった。

 

結局、秦の統治政策を受け継いだ漢王朝

始皇帝があまりに急激に改革を進めたことが大きな理由となり、秦はわずか15年しか続かず、前206年に滅亡してしまう。そのあとに覇権を争ったのは項羽と劉邦であり、最終的に劉邦が勝利をえて、前202年、漢王朝が成立した。

漢では、皇帝の力は、当初は秦と比べると非常に弱かった。しかし、皇帝は諸侯の権力を奪い取って、自分の権力を強めようとした。このような動きが重なり、諸侯が反発したのが、前154年に勃発した呉楚七国の乱であった。

呉楚七国の乱は景帝により短期間で鎮圧された。さらに次の武帝の治世になると、諸侯の力はさらに弱められ、君主独裁制が強められることになる。それはまさに、始皇帝が望んだ政策であった。

こうしてみると、秦から漢(前漢)の武帝に至る80年余りは、皇帝独裁=中央集権化政策の歴史であった。この政策をはじめたのが始皇帝であり、完成させたのが武帝であったといえよう。この政策は、経済的には、単一市場の誕生を目指したものだったと考えられる。そのため、中国の物流は盛んになっていった。

武帝の対外遠征は、結局、始皇帝が長生きしていたらしていたことをおこなったにすぎない。始皇帝から武帝までの100年ほどをかけ、中国は経済成長に適した制度を整えていったのである。

中国ではヨーロッパにはるかに先駆けて、度量衡や文字が統一された。しかもその影響は中国国内にとどまらず、アジア各地、とりわけ東アジアにおよんだ。したがってアジアでは中国を中心とする経済システムができあがり、ヨーロッパより経済成長しやすい制度ができあがったといえよう。

EUができるずっと以前に、中国に単一市場が誕生したのである。その影響は、アジアの多くの地域におよんだ。ここに、アジアの経済成長の鍵があった。

 

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