Voice » 政治・外交 » なぜ「東シナ海の日中合意」は復活した? 安倍・習近平による外交の成果

なぜ「東シナ海の日中合意」は復活した? 安倍・習近平による外交の成果

2024年03月22日 公開
2024年05月10日 更新

薮中三十二(元外務省事務次官)

2008年問題

中国は外交官による交渉が通用する国ではないと捉えられることが多いが、2008年の「東シナ海油ガス田共同開発合意」は日中間の確かな外交の成果だといえる。一度は葬られた合意はなぜ2017年に復活したのか。

※本稿は、薮中三十二著『避戦論』から一部を抜粋・編集したものです。

 

東シナ海に関する日中間の2008年合意

岸田内閣が定めている「国家防衛戦略」において、「中国は東シナ海、南シナ海において、力による一方的な現状変更やその試みを推し進めている」との記述があるが、実は日中間には、2008年5月に発表された日中共同声明において、「共に努力して東シナ海を平和・協力・友好の海」にする、という申し合わせがある。

その申し合わせの第一歩が「2008年東シナ海油ガス田共同開発合意」である。この合意は、2007年12月の福田総理中国訪問を契機に日中間で話し合い、まとめられたものである。ひとことで言えば、東シナ海を日中の中間線で2つに分ける意味を持つ合意である。

中国は、南シナ海では全ての海が中国の海だと主張し、フィリピンやベトナムと争っているが、東シナ海では日中両国が中間線をベースに棲み分けを行い、平和共存しようというのである。まったく南シナ海とは違う対応を中国はとっているのだ。

この2008年合意に至る経緯を見ていこう。

2003年ごろに行われた日中海洋協議の場では、中国は沖縄トラフまでが中国の海だと主張していた。これは、大陸棚が延びていれば、大陸側の国は350カイリまでを自国の排他的経済水域として主張できるとの国連海洋法条約の規定を援用し、海が深くなる沖縄トラフまでが大陸棚であり、中国の海だと主張していたのである。

これに対し日本側は、国連海洋法条約では、2カ国が向かい合っている場合は、話し合って決めるべきことが定められており、その際、中間線をベースに水域を確定するのが国際的な相場感だと主張し、真っ向から対立していた。こうした違いのため、日中間の海洋協議では、水域をめぐる話し合いは全く進展しなかった。

ところが、2007年9月に誕生した福田康夫政権は、中国との関係改善を図る姿勢を示し、中国の政権もこれに応じて日本との関係改善に意欲を示した。そして海洋協議も新たな展開を迎えることになった。

2007年12月、福田総理が訪中し、胡錦濤国家主席及び国務院総理と会談し、日中両国の戦略的互恵関係を具体化していくことで合意した。その一環として、東シナ海問題について、次官級協議を行い、早期解決を図ることが申し合わされたのだった。

2008年5月には胡錦濤国家主席のとしての訪日があり、その際に発出された「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」において、「共に努力して、東シナ海を平和・協力・友好の海とする」と明記され、日中協力の推進が軌道に乗り始めた。

こうした首脳間の合意を基にして、2008年6月、日中間で次官級協議がもたれ、東シナ海油ガス田共同開発の合意が達成されたのだった。この合意の肝は、共同開発を行う水域が確定され、その水域の中を日中中間線が走っている、という点である。

すなわち、この合意は日本と中国が東シナ海において、中間線を念頭に置いた形で水域を確定することを意味しており、まさに日本が主張してきた中間線での水域確定が、事実上、実現した瞬間であった。

私はこの交渉を外務次官と行ってきていたが、日本側のメンバーである、当時の秋葉剛男中国課長(現国家安全保障局長)や望月晴文資源エネルギー庁長官と熱く握手したものだった。

もちろん、東シナ海には尖閣諸島があり、この合意で東シナ海の全ての問題が解決するわけではないが、日中両国首脳が東シナ海を平和・協力・友好の海とすることで合意しており、日本と中国との間で東シナ海を巡って平和的に問題を解決し、協力していこうとする雰囲気が醸成されたことは間違いなかった。

 

中国漁船衝突事件による大打撃

ところが、この2008年東シナ海油ガス田共同開発合意(以下「2008年合意」)について横槍が入ってしまった。中国国内からのもので、「なぜ、日本にそんなに譲歩したのか?」とする対日強硬派からの批判であった。

このような批判を受けて、中国外交部は、「合意は確認する、しかし、その合意を条約に移し替える作業を少し待ってほしい」と伝えてきたのだった。私は、この動きにいささか不安を感じたが、やむをえず、中国側の国内調整を待つことにしたのだった。

そして2年の月日が流れたが、2010年9月、ようやく「2008年合意」について条約交渉が行われようとしていた時、尖閣諸島中国漁船衝突事件が起きてしまった。これは、2010年9月7日、尖閣諸島付近の海域をパトロールしていた海上保安庁巡視船に対し、中国漁船が衝突してきた事件だった。

その模様を生々しく伝える映像がYouTubeにアップロードされ、広く日本国民が見ることになったが、私は、この中国漁船衝突事件を見て、中国の保守派が「2008年合意」を潰しにきたなと感じたのだった。

この中国漁船衝突事件は、漁船の船長逮捕、船長逮捕に対する中国側の釈放要求、処分保留での船長釈放と続いたが、この間、日中間を巡る雰囲気が悪化し、「2008年合意」に関する条約交渉は吹っ飛んでしまったのだった。

この時、私は外務省を退官した直後だったが、「2008年合意」の条約化が達成できなかったことは残念でならなかった。

その後、日中関係は極めて厳しい時代を迎えていった。2012年、先述した通り、当時の野田政権が尖閣諸島の国有化をした時、中国側が猛反発し、反日デモが中国各地で繰り広げられる事態となった。

2013年には「中国大国の夢」を語る習近平体制が発足した。そして日本側の安倍総理との間では睨み合いが続き、「2008年合意」は露と消えたかと地団駄を踏む思いだった。

 

2017年、まさかの復活

ところが奇跡が起こった。2017年11月、ベトナム・ダナンで行われた安倍総理と習近平国家主席の日中首脳会談において、「2008年合意」が蘇ったのである。

この日中首脳会談において、東シナ海を「平和・協力・友好の海」とすべく、引き続き意思疎通していくことで一致し、「2008年合意」を堅持し、同合意の実施の具体的進展を得るよう、引き続き共に協力していくことが申し合わされた。

習近平国家主席が「2008年合意」を再確認したことに私は驚きを禁じ得なかった。中国の保守派から日本に譲りすぎたとして批判があった「2008年合意」、しかも胡錦濤政権時代の合意であり、大国主義を前面に押し出す習近平政権がこの「2008年合意」を否定こそすれ、肯定することはないだろうと見るのが自然だった。

しかも、「明の時代から南シナ海は中国の海だった」としてフィリピンやベトナムなどの主張を退け、国際ルールを無視してきた政権である。その習近平政権が「2008年合意」を再確認したのだ。

この展開は驚きであり、安倍政権の大きな外交上の成果であった。習近平国家主席と安倍総理との関係はかつて、相当にギクシャクしたものであり、2014年、APEC首脳会議の際に短時間会談した時などは両者に一切笑顔が無く、国際的にも話題になったほどだった。その二人が2017年、笑顔で固く握手したのである。

この変化の背景には中国とアメリカ・トランプ政権との厳しい対立があり、日本を少しでも中国側に引き込もうとする思惑があったはずだが、同時に、安倍総理の力を再評価したことも大きかったのではないかと思われる。

続いて2018年、2019年と安倍・習近平会談が行われ、その都度、「2008年合意」の再確認が行われたのだった。

2020年には安倍総理の招待により、習近平国家主席の訪日が行われるはずだったが、新型コロナウイルス感染症の流行で訪日が延期されてしまった。このため、「2008年合意」に関して具体的進展は未だ見られていないが、「2008年合意」が再確認された事実は厳然として残ったままである。

ところで、この「2008年合意」の再確認について、日本国内での反応は皆無に等しい。中国では、日本に極めて有利な合意だとして強い反発があった合意である。

そうした合意が実現する可能性がめぐってきたにもかかわらず、日本での反応は皆無と言っていいほど乏しい。東シナ海について論議する学者や専門家の間からも、この「2008年合意」はスルーされてしまっている。

一体、これはどうしたことかと不思議でならない。日本政府の説明不足なのかと思い、2017年日中首脳会談に関する外務省の発表文を見ると、

⃝安倍総理から、東シナ海の安定なくして日中関係の真の改善はない旨が述べられ、両首脳は、東シナ海を「平和・協力・友好の海」とすべく、引き続き意思疎通していくことで一致した。

⃝両首脳は、防衛当局間の「海空連絡メカニズム」を早期に運用開始するため、協議を加速化していくことでも改めて一致した。また、東シナ海資源開発に関する「2008年合意」を堅持し、同合意の実施の具体的進展を得るよう、引き続き共に努力していくことで一致した。

と一応は「2008年合意」に言及しているが、この説明文だけでは、一体、この「2008年合意」の意味合いがどういったものなのか、判然としないのかもしれない。

2017年、ベトナムのダナンで開かれた日中首脳会談を伝える報道を見てみると、日本経済新聞は「安倍・習氏、初めての笑顔」の見出しの下で「日中関係改善の意思を確認」とあるだけであり、「2008年合意」への具体的な言及はなく、各紙も概ね同様の報道ぶりだった。

その一方で、東シナ海のガス田に関して、「中国、東シナ海ガス田で新たな試掘着手か」という見出しで「中国が東シナ海で一方的にガス田開発を行っている疑いがある」と大きく報じる記事もあった(2018年11月30日付産経新聞)。

この報道にあるガス田の開発は、東シナ海の中間線の西側にあるものであり、「2008年合意」においても対象としていない水域にあるガス田である。

メディアの報道ぶりというのは、問題があれば大きく報じるが、良いニュースはあまり報じないという傾向にあるのかもしれないが、こと、この「2008年合意」に関しては、いささかバランスを失していると言わざるをえない。

 

Voice 購入

2024年10月号

Voice 2024年10月号

発売日:2024年09月06日
価格(税込):880円

関連記事

編集部のおすすめ

台湾有事で想定される2つのシナリオ...中国が「米軍を奇襲する」可能性

高橋杉雄(防衛研究所防衛政策研究室長)

日本の防衛費増額が果たす意味とは? アメリカに迫る“中国の軍事力”の実態

高橋杉雄(防衛研究所防衛政策研究室長)

天安門事件以降、“中国共産党の暴走”に拍車をかけた周辺諸国の責任

ウーアルカイシ(民主活動家/台湾立法院人権委員会秘書長)
×