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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第23回 リュック・モンタニエ(2008年ノーベル医学生理学賞)

2023年12月04日 公開
2024年12月16日 更新

高橋昌一郎(國學院大學教授)

「AIDSウイルス」を発見し、「ホメオパシー」を擁護し、「水の記憶」を妄信した天才

リュック・モンタニエ
リュック・モンタニエ(2008年)

どんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。本連載では、ノーベル賞受賞者の中から、とくに「異端」の一面に焦点を当てて24人を厳選し、彼らの人生を辿る。

天才をこよなく愛する科学哲学者が、新たな歴史的事実とエピソードの数々を発掘し、異端のノーベル賞受賞者たちの数奇な運命に迫る!

※本稿は、月刊誌『Voice』の連載(「天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち」計12回)を継続したものです。

 

ナチス・ドイツに蹂躙された幼年時代

リュック・モンタニエは、1932年8月18日、フランスのアンドル県シャブリで生まれた。アンドル県は、フランス中央部のサントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏に属する農業地域である。シャブリはロワール渓谷の南に位置する村で、今でもウェールズウサギとヤギのチーズ、アスパラガスなどの生産地として知られる。

モンタニエは、自分の「モンタニエ(山の男)」という姓の由来は、彼の父親の家系がオーヴェルヌ地方の山岳地帯にあることだと推測している。プライバシーを考慮しているためか、彼の両親についての情報はほとんど発表されていない。わかっていることは、彼の父親が会計士で、母親は専業主婦であり、夫妻は一人息子のモンタニエを大切に育てたということである。

モンタニエの父親は、若い頃に「感染性関節炎」に罹り、そこから「大動脈弁狭窄症」を発症したため、身体を動かす仕事ができなくなった。そのため、兵役に不合格となり、座って仕事のできる会計士の資格を取得したという。

5歳のモンタニエは、家の前の道路を横断しようとしたところ、スピードを上げて田舎道を走ってきた自動車に撥(は)ねられて頭蓋骨骨折の重傷を負い、昏睡状態となった。だが、彼は「奇跡的」に2日後に回復し、しかも後遺症も残らなかった。のちにモンタニエは「私は完全に生まれ変わったのです」と述べている。ここに彼が将来、神秘主義的傾向を抱くようになる萌芽を見ることができるかもしれない。

1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、9月3日にイギリス、4日にフランスがドイツに宣戦布告して、第2次世界大戦が勃発した。

7歳のモンタニエは、家族と一緒に親戚のブドウ畑でブドウを収穫している最中、届けられた新聞でニュースを知った。その1面には、ナチス・ドイツ空軍に爆撃されて廃墟のようになったポーランドの首都ワルシャワの写真があり、その光景が生涯、彼の目に焼き付けられたという。

1940年5月、ナチス・ドイツはフランスに侵攻を開始した。ドイツ空軍は短期間にフランスの制空権を奪い、6月14日に「無防備都市宣言」されていたパリに無血入城した。6月22日、コンピエーニュの森で「独仏休戦協定」が調印された。フランス軍は武装解除され、アルザス=ロレーヌがドイツに割譲されたうえ、北部フランスはドイツ軍に占領された。

モンタニエの父親は、シャテルローの主要幹線駅の近くにあった家を捨てて、小さな車に妻と息子を乗せて南部に逃避した。彼らは、何度もドイツ空軍に空襲され、食料もほとんど入手できず、飢餓に苦しんだ。

モンタニエは「8歳の頃の私は、いつもチョコレートとオレンジのことを夢見ていました。私の身体は非常に小さいままで、4年間の戦争中に1グラムも増えませんでした」と述懐しているから、成長期に非常に辛い思いをしたことがわかる。

1944年6月には連合軍の進撃が始まり、モンタニエの家は連合軍によって爆破された。のちにモンタニエは、「フランスが解放されたことに対して、私は複雑な感情を抱いています。たしかにそれは大きな安堵感をもたらしましたが、同時に多くの人々、兵士ばかりでなく民間人が殺された光景や、強制収容所から解放されたガリガリにやせ細った人々の姿を今も忘れられません。私は、戦争とその残虐行為を生涯憎み続けています」と述べている。

戦後、モンタニエ一家は、フランス政府が被災者のために用意した家屋で暮らした。この住居は、フランスを占領したナチス・ドイツの兵隊が暮らした兵舎の一部が割り当てられたものである。行く当てのないモンタニエ一家に、選択の余地はなかった。

 

ポワティエ大学からパリ大学へ

飛び級で高校に入学したモンタニエは、図書館にあった科学の本を貪るように読んだ。とくに彼が興味を持ったのは、当時飛躍的な発展を遂げていた原子物理学と量子化学である。彼は地下室に化学実験室を作って、甘い香りのアルデヒドやさまざまな化合物を生成した。

1948年9月、16歳のモンタニエは、ポワティエ大学に進学した。彼は、理学部と医学部の両方に籍を置き、午前中は病院で医学を学び、午後は大学で物理学と化学、植物学と動物学、さらに地質学を学んだ。当時のモンタニエが、いかに向学心に燃えていたか、よくわかる。

彼の指導を引き受けたピエール・ガヴォーダン教授は、専門は植物学であるにもかかわらず、その研究対象は植物をはるかに超えてDNA構造やタンパク質合成、バクテリアやウイルスなどの分子生物学に広がる「非常に型破りな教授」だった。

彼は、モンタニエに「新しい生物学」のすばらしさに目を開かせた。そこでモンタニエは、医学ではなく生物学を極めることを決意した。

1952年9月、飛び級でポワティエ大学を卒業した20歳のモンタニエは、パリ大学大学院に進学した。彼は、パスツール研究所でバクテリアの世界に魅了され、ウイルスからヒトに関連する神経生理学と腫瘍学を専攻した。1955年、モンタニエは23歳の若さで、パリ大学キュリー研究所の助手に採用された。

1955年といえば、タバコなどの植物の葉にモザイク状の斑点ができる「タバコモザイク病」の原因が「タバコモザイクウイルス」による感染症であることが解明された年である。

1958年には、ロンドン大学の分子生物学者ロザリンド・フランクリンが「タバコモザイクウイルス」のX線解析により構造模型の作製に成功した。これらの成果が「ウイルス学者になるという私の使命を決定しました」とモンタニエは述べている。

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グラスゴー大学からパスツール研究所へ >

著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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