2022年07月26日 公開
2022年07月27日 更新
1922年、イタリアでムッソリーニ政権が成立。その3年後に独裁宣言がなされ、ヨーロッパにファシズム政権が誕生した。イタリア・ファシズムは国境を超えて他国にも多大な影響を与え、やがて1933年にはドイツにもヒトラーの独裁政権が確立する。しかし、両国の関係は決して蜜月といえるものではなかった。
※本稿は、細谷雄一・編著『世界史としての「大東亜戦争」』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
1933年1月、ドイツでヒトラーが首相に就任する。すでにムッソリーニのファシズム政権が確立していたイタリアのメディアは「ドイツ・ファシズムの勝利」と言祝(ことほ)いだが、ここから独伊間の競合が始まる。
そもそも外交・安全保障の面で、当初独伊は対立していた。ムッソリーニは、ヒトラーが求めるドイツとオーストリアの合邦を防ぐため、オーストリアのドルフス政権を支えていた。
1934年6月にヒトラーとムッソリーニの会談がヴェネツィアで行なわれたが、この会談でムッソリーニはヒトラーを「狂人」と判断する。同年7月にオーストリア・ナチ党がクーデタを企てドルフス首相を殺害すると、ムッソリーニは墺伊国境に二個師団を派遣し、軍事介入をちらつかせた。
35年3月にドイツが再軍備を宣言すると、ムッソリーニはストレーザで英仏首脳と会談し、ナチ・ドイツに対する共同戦線を構築した。
こうした情勢を背景に、ファシズムをめぐる主導権争いも独伊の間で生じた。1933年7月、「ローマの普遍性のための行動委員会(CAUR)」が設立され、このCAURの主導で1934年12月にモントルーでヨーロッパ・ファシストの国際会議が開催された。そこにはヨーロッパ各国のファシストが集まったが、ドイツのナチ党からは有力者が参加しなかった。
しかも同会議では、決議をめぐる紛糾があった。イタリア側が協同体主義を強調する一方、たとえばノルウェーの国民結集党の指導者ヴィドクン・クヴィスリングが、ナチ流の人種主義を前面に出そうとしたのである。結果、決議は曖昧なものにとどまった。
ドイツのナチズムとイタリアのファシズムの綱引きは、各国のファシズム運動に反映された。ここではイギリスの例を取り上げよう。同国では、1932年10月にオズワルド・モーズリーが、イタリア・ファシズムに魅了されて、英国ファシスト連合(BUF)を結成していた。
イタリア側も、33年以降に駐英大使ディーノ・グランディを通じてBUFに資金援助をしていた。しかし、モーズリーは徐々に反ユダヤ主義を強め、次第にナチに傾倒していく。
36年にBUFは党名を「英国ファシストおよび国民社会主義者連合」に改め、モーズリーの妻ダイアナ・ミットフォードを通じてナチ・ドイツから資金援助を受けるようになった。逆に、BUFとイタリアの関係は悪化し、イタリア政府からの経済援助は打ち切られることになった。
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更新:11月21日 00:05