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親中派のはずが何故? のちの「日独伊三国同盟」に繋がったヒトラーの方向転換

大木毅(現代史家)

 

ドイツが「世界強国」をめざすとき

かように、ドイツの内政事情を少なからず反映した中途半端な協定であったが、結果的には、それが日独同盟への最初の橋頭堡を築くことになった。

その劇的な変化をもたらしたのは、ドイツの政策転換であった。政権獲得以来、着々と再軍備に努めてきたヒトラーは、いよいよ領土拡張に乗りだしたのである。

1936年のラインラント進駐(非武装地帯と定められていた地域に軍を進めた)、1938年のオーストリア合邦(アンシュルス)と、その冒険的な拡張政策はつぎつぎと成功した。ところが、1938年5月にヒトラーは初めてつまずいた。

当時、ヒトラーは、ドイツ系住民が多数存在するズデーテン地方の割譲を求め、それを契機にチェコスロヴァキアに侵攻しようとしており、両国の関係は一触即発の状態になっていた。反応したのはチェコだけではない。

イギリスとフランスは、チェコ侵攻は第二の世界大戦を意味すると警告を発した。東の大国ソ連も、チェコスロヴァキア援助の用意があるとの声明を出す。これでは、ヒトラーも引き下がらざるを得なかった。

とはいえ、ヒトラーはチェコ征服をあきらめたわけではなかった。さりながら、ドイツには英仏ソを相手に2度目の大戦に突入する用意はない。

それでもなお拡張政策を続けようとするならば、戦争をチェコ一国に対するものに局限する必要がある。その条件を整えるには、英仏ソの介入を牽制する何かを確保しなければならない。それは――。

ヒトラーが眼をつけたのは日本であった。日本と軍事同盟を結ぶことができれば、英仏ソは、極東の国土や植民地においても戦争に突入すると覚悟しないかぎり、チェコ支援を実行することはできない。

だが、英仏ソのいずれにも、そうした大戦争を行なう意思も準備もないだろうから、ドイツはヨーロッパでフリーハンドを得ることになろう。

このヒトラーの目論見に端を発して日独は接近し、紆余曲折を経て、1940年9月の日独伊三国同盟締結に至ることになる。日本国内で、日本が枢軸側に加わることはアメリカとの戦争を意味すると主張する声がないわけではなかった。

しかし、それはあまりにか細く、影響をおよぼすことはなかったのである。日本が真珠湾攻撃をおこなったのは、その1年3か月後であった。

 

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