2020年01月06日 公開
2024年12月16日 更新
(日本海軍攻撃隊の爆撃で炎上する真珠湾のアメリカ戦艦)
日米戦争は、第二次世界大戦の一側面であった。ヨーロッパの戦いから派生した局地戦であったと言い換えることもできる。米国のフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(以下、ルーズベルト)も英国のウィンストン・チャーチル首相も真の敵はナチスドイツであると考えていた。
戦後教育で育った世代は、日本の支那大陸への「侵略的」外交政策が、あの戦争の原因であると考える。仮に日本の満洲事変以降の外交が侵略の連続であるという解釈を是とするとしても(筆者はこのような解釈はしていない)、それは日米開戦の原因ではなかった。
※本稿は歴史街道編集部編『太平洋戦争の新常識』(PHP新書)から一部抜粋・編集したものです。
英国がドイツの空爆(The Blitz)に苦しみ、米国にどれほど救援を求めてもルーズベルトは動けなかった。米国にとって、英国は言葉を同じくするもっとも親しみのある国である。その国が敗北寸前まで追い込まれていた。それでもアメリカ世論は動かず、ルーズベルトは身動きが取れなかった。
世論の80パーセント以上が頑として、ヨーロッパのごたごたに巻き込まれることを拒否し続けた。そのアメリカ国民が、中国のために自国の若者の命を犠牲にしても構わないと思うはずもない。
日米開戦と日中戦争は全く関係がない。それにもかかわらず、日中のごたごたが日米の戦いの原因であったかのごとく語られるのは、戦後の日本国民にそのように思わせたい歴史家や外国勢力が存在するからだ。
日米開戦の真の原因はルーズベルトとチャーチルが、あくまでもナチスドイツとの戦いを望んだからである。ルーズベルトがドイツとの戦いを望んでいたことはハーバート・フーバー元大統領、ハミルトン・フィッシュ下院議員など、彼と同時代を生きた政治家がすでに多くを語っている。
ルーズベルトが、ワシントン議会の承認なく、ドイツ海軍(Uボート)への攻撃命令を発していたこと、国民に対してその事実を隠し、米艦船がUボートから一方的に攻撃を受けていると説明していたこと、あり得ないナチスドイツによる米本土攻撃の恐怖を煽ったこと、一方でアドルフ・ヒトラーはルーズベルトの挑発に乗るなと海軍に厳命していたことなどは、すでによく知られている。
もしルーズベルトが、ヨーロッパの戦いに巻き込まれることを怖れ、そうした事態を真に避けようとしていたのであれば、ドイツに宣戦布告した英仏と独の間に立って仲介に入る外交的オプションがあった。
アメリカの強大な国力を背景にした外交を展開すれば、少なくとも暫定休戦協定を締結させられる可能性があった。米国には戦争当事国に痛み分けを強制できる力があったのである。
実際、当時のルーズベルト支援者の中にも、彼がそのような外交を展開してくれるだろうと期待するものが少なくなかった。
その一人がウィリアム・ローズ・デイヴィスであった。
デイヴィスは独立系石油王であり、ルーズベルトの有力支援者だった。ルーズベルトが再選を目指した選挙戦(1936年)では、30万ドルを拠出している。
彼は、民主党の有力支持団体であるアメリカ鉱山労働者連盟会長ジョン・L・ルイスの友人でもあり、ホワイトハウス幹部とは太い人脈があった。
1939年9月15日正午少し前、彼はホワイトハウスでルーズベルトと会っている。このことはルーズベルトの公式スケジュールの控えから確認ができる。
自身が密使となり、ドイツ指導者に休戦交渉に応じるよう説得したいと語り、ルーズベルトの了解を得た。コーデル・ハル国務長官、スティーブン・アーリー報道官、ジョン・ルイス会長も同席した。
ベルリンに入ったデイヴィスは、ヘルマン・ゲーリング元帥と複数回にわたる交渉に臨んだ。ルーズベルトに仲介の意思があると聞かされたゲーリングは驚いたようであったが、米国の仲介努力を感謝し次のように語った。
「貴殿の言葉には驚かされた。ルーズベルト氏は我が国に対しては悪意を持ち、英仏への同情心が強いと思っていた。和平の維持についてドイツは常にそれを望んできた。ただ対等の関係でなくてはならない。いまあなたが披瀝した考えは、ヒトラー総統及びわが政府のこれまでの主張に合致する。ワールドコンフェランス(世界規模の会議)を開くこと。それだけが、和平を再構築できる手段であろう。我が国は当然に、ルーズベルト氏がそのような会議を主宰するのであれば歓迎である。会議の目的は、恒久的和平の構築である」
ゲーリングは、「世界会議はどこで開催されても構わない。ワシントンであっても自身が代表として参加する」とまで述べた。
ナチス政権の講和(休戦)を望む態度を確認したデイヴィスは、直ちにワシントンに戻った。しかしルーズベルトは、自身が遣(や)った密使であるにもかかわらず、彼と会おうとしなかった。理由は「会議中で忙しい」であった。
業を煮やしたデイヴィスは、ドイツが講和の意思を持っていることを手紙で伝えたが、ルーズベルトから返答はなかった。
(チャーチルから仲介への反発があった可能性も否定できないが)ルーズベルトにはナチスドイツと外交交渉するつもりは、はなからなかったと推論しても、間違いなかろう。その後、デイヴィスがホワイトハウスに招かれることはなかった。
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更新:12月22日 00:05