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若者世代に「空気読め」は通じない...“説明しない政治”がいま問題な理由

2022年05月24日 公開

山口航(帝京大学法学部専任講師)

 

「特殊性」否定的に見るか? 肯定的に見るか?

ここで提起したいのが、日本は国際的に、普遍性を帯びた「自由で開かれた」という理念を志向しているが、国内ではどうか、という観点である。

「わが国に国内問題などない」と言ってしまえば、これは、どこぞの権威主義国家の報道官と同じ台詞である。むろん、国家的な人権の抑圧などと、不作為による(と思われている)問題は、同列に論じられないかもしれない。しかし、だからといって、日本国内に目を向けなくてよい、ということにはならない。

自己認識と他者からの視点には、往々にしてズレが生じる。それが顕著に表れたのが、1990年前後に巻き起こった「日本異質論」である。貿易摩擦などを背景として、日本の政治経済のシステムが西欧近代国家の普遍的なそれとは異なり、「自由で開かれて」いないと批判的に論じられた。

また、ほぼ同時期の1993年には、自民党衆議院議員であった小沢一郎の名で『日本改造計画』が刊行され(じつは北岡伸一、御厨貴、飯尾潤、竹中平蔵、伊藤元重が執筆したという)、日本は「普通の国」になれと提言された。内外の変化に対応するために、政治や経済、社会のあり方や国民の意識を変革し、「世界に通用するものにしなければならない」との主張である。

「日本異質論」も「普通の国」論も、日本が国際標準から乖離しているとして、その「特殊性」を批判的に捉える点では、軌を一にしている。これは、社会学者のエズラ・ヴォーゲルが、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979年)で「日本的経営」などの諸制度を取り上げ、日本の「特殊性」を肯定的に論じたのとは対照的であった。

こうした議論の構図は、韻を踏んで繰り返されている。今日の新型コロナウイルス感染症をめぐっても、一方では、海外に及ばない検査数や、ワクチン接種やデジタル化の遅れといった、日本の「特殊性」が否定的に受け止められている。

他方、国際的に見れば、死者数や感染者数が相対的に少ないのは、日本人の国民性や体質に要因があると、その「特殊性」が肯定的に見られることもある。いずれも、日本の「特殊性」を前提とする点においては共通しているのである。

 

アカウンタビリティの模索

「日本異質論」の代表的論客、ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレンは、日本にはアカウンタビリティが欠如していると主張した。権力者が政策について人びとにきちんと説明し、人びとは権力者に方向性を指し示す。このようなコミュニケーションが日本にはない、と論じたのである。

こうした指摘もあり、とくに1990年代以降、アカウンタビリティは、さまざまな文脈で追求されることになった。政治面においても、平成の一連の改革は、アカウンタビリティを導入し、透明性を高めようとしたものである。当時、リクルート事件や東京佐川急便事件に端を発して、「政治とカネ」をめぐり政治に対する不信感が強まった。不透明な政治の温床が中選挙区制に求められ、政権交代可能な二大政党制がその解決策であるとされた。

かくして、政治改革関連法が1994年に成立した。これにより、アカウンタビリティを果たせなかった与党を選挙で交代させられる制度が、(まがりなりにも)整えられることとなった。また、中央省庁再編に結実する1990年代後半の橋本行革でも、「国民への説明責任の徹底」が謳われており、アカウンタビリティは当時の改革の気運を象徴する言葉である。

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