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若者世代に「空気読め」は通じない...“説明しない政治”がいま問題な理由

2022年05月24日 公開

山口航(帝京大学法学部専任講師)

 

「みなまで言うな」への反発

近年、アカウンタビリティのリバイバルが生じているように思われる。たとえば、デロイトトーマツグループの「2021年ミレニアル・Z世代年次調査」によると、世界的に見て、ミレニアル世代(1983~94年生まれ。筆者もこの端くれである)やZ世代(1995~2003年生まれ)と呼ばれる若年層は、アカウンタビリティを重視する傾向があるという。「自由で開かれた」という理念は、こうした潮流とも合致している。

これを筆者は、「みなまで言うな」(事情は察したからすべてを説明しなくてよいの意)への反発と理解している。言語化されない仲間内の「伝統」に従うことが求められ、暗黙の了解から意図せず逸脱してしまった場合には「物わかりが悪い」「空気が読めない」として、冷遇ないし排除される。

はたして、これが「自由で開かれた」社会であろうか。身近なハラスメントから、格差、差別、人権、環境問題などにいたるまで、説明がつかない因襲は、この世代には受け入れがたいのである。

政治のアカウンタビリティに関しても、過去を知る世代は「昔よりはマシ」と比較ができる。だが、若年層には比較の対象がないために、そう言われたところで実感がわかない。

戦争についても同様である。この世代は「戦争を知らない子供たち」の子どもたちや孫たちである。太平洋戦争どころか冷戦などの「大きな物語」を、そもそも実体験としては知らない。したがって、最近は戦争の記憶が薄れ「右傾化」していて危険だ、あるいは、戦勝国から「押しつけられた」憲法の屈辱を忘れるな、と説教されても、響くはずもない(戦争体験をいかに受け継いでいくかは別の課題である)。

かつては、「右傾化」や「押しつけ憲法」の議論をもち出せば、「水戸黄門の印籠」のごとく、相手が沈黙することもあったであろう。だが、いわゆる左右のこうした形式美を愛でる余裕が、いまやこの国にあるとは思えない。

 

「説明させる責任」

もっとも、「アカウンタビリティが不十分である」と言うときには、主体的に相手に説明を求める必要があることも忘れるべきではない。「説明する責任」を一方的に相手に押しつけ、自らの「説明させる責任」を不問に付してはならないのである。そして、説明を求めるからには、それを聞かねばならない。

説明させる努力をしなかったのであれば、それは怠慢である。相手が真摯に説明をしているのに耳を傾けなかったのであれば、それは傲慢である。

評論家(元・歴史学者)の與那覇潤が論じるように、ローカルな慣習や暗黙の合意で処理されてきた事案が白日の下にさらされるや、糾弾が殺到し、誰も弁護できないというマス・ヒステリーは、もはや定期的な祭礼として定着した観もある。そこに、説明を求める姿勢はない。アカウンタビリティの欠如を批判する(スタンスをとる)側が、一方的な振る舞いによって、アカウンタビリティを喪失してしまっている。

もちろん罪は裁かれねばならない。だが、それを人民裁判や私刑に委ねるのは、「自由で開かれた」法治国家ではない。

多様化する社会のなかでは、幅広い合意の形成が難しくなっているのかもしれない。それでも、自己とは違う存在を認識する想像力を涵養(かんよう)し、同意はできなくとも共感を示しつつ、相手の説明に耳を傾けて対話をすることが、「自由で開かれた」社会をめざすのに不可欠なのではあるまいか(この点、大平は「信頼と合意」を掲げたが、岸田首相が「信頼と共感」を強調しているのは興味深い)。

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