2022年05月24日 公開
このことを掘り下げていけば、ある難問に突き当たる。それは、「自由を認めず開かれていない」相手に対しては、「自由で開かれた」態度を放棄してよいのか、という問いである。これは国際的な秩序を追求する際にも当てはまる。
もちろん、人権問題が生じている国などに対しては、毅然として対処しなければならない。政策の手段同士はときとしてトレード・オフの関係にあるため、一定の対立や不利益を覚悟する必要もある。
さりとて、長期的には、そのような国が少しでも望ましい方向に向かっていくよう慫慂(しょうよう)すべきであろう。相互依存の進む世界において何らかのかたちで関わっていかねばならない以上、変化の可能性を完全に見限るべきではない。「自由で開かれている」か否かを踏み絵として、適合しなかった国を排除し溜飲を下げるのは、建設的な態度とは言えまい。
たしかに、「自由で開かれた」という大風呂敷を広げることには、面映ゆいと感じたり冷ややかに見たりする向きもあろう。「この国のかたち」はニュアンスに富んでおり、このような単純なキャッチフレーズでは言い表せないと。
しかし、表現できないから察しろと求めるのは、これからの世代には通じない。難点も多々あるが、それでも、理念を言語化することには意義がある。もし実情にそぐわないのであれば、柔軟に修正していけばよかろう。十分に「自由で開かれている」から理念を打ち出すというよりも、理念を掲げることで「自由で開かれた」秩序が形成されていく側面もある。
こうした理念を謳うだけで満足するのではなく、その意味を絶えず問うことによって、「この国のかたち」を見直し続ける姿勢こそが肝要である。
〈文中、敬称略〉
更新:11月21日 00:05