2021年01月01日 公開
2022年10月25日 更新
蔡英文政権でデジタル担当大臣を務め、近隣店舗のマスク在庫を把握できる「マスクマップ」の開発を主導したことで知られるオードリー・タン氏。彼女のルーツを探ると、そこには日本との深い関わりがあった。自身の日本に対する特別な思いとともに、日台関係の展望について語る。
※本稿は『Voice』2021年1⽉号より⼀部抜粋・編集したものです。
取材・構成・写真:栖来ひかり(台湾在住ライター)
――あなたは自身を「持守的な無政府主義者」と称しています。どういう意味でしょうか(タン氏は、保守と"持守"という言葉を使い分けている。持守は、人がその主体性の拠り所となる「善い心」をいかに「持ち守る」かを論じたもので、朱子学に登場する)。
【タン】私のいうアナーキスト(無政府主義者)の意味は、「私は人に強制しない」「他人も私に強制することはできない」という意味です。つまり、命令したりされたりせず、どちらも平等な話し合いや理解で公共の職務を進めていく状態を指します。
では、「持守」とは何か。台湾のように20種類の異なる国家言語、30~40種類の異なる文化が存在する社会では、人生でそれらすべてに触れることは不可能で、せいぜい1、2種類でしょう。しかし、経験を重ね、自らの文化領域を超えて他の文化に触れることで、あらためて自分が育ってきた過程を振り返ることができる。それが「文化に跨る」ことです。
ところが「自分の文化こそが正しい」と主張し、正統性や進歩のために他の文化を壊すならば、一見それは進んでいるようにみえても、他の文化からは「"持守"の価値がない」とみなされる。
これはネット文化でも同じですが、他の文化を貶めることなく一緒に進んでいく、それが私のいう「持守」です。いかなる年齢、文化、学問を修める人でも皆「公民之國」(市民の国)の一員で、そこでは何も破壊されることはありません。
――「公民之國」という言葉が出ましたが、各国の新型コロナ対応に差が出たこともあり、世界で「国家」の役割は大きくなっているようにみえます。ここで生じる、民族国家(ナショナリズム)と普遍的な価値観との相克についてどう考えますか。
【タン】もしあなたが多くの文化をアイデンティティとしてもち、それらを越境しようとする姿勢があれば、「中華のみが文明である」といった排外主義的な態度は生じないでしょう。しかし、もし自分たちとは異なる文化を排除することで民族国家を建てたとすれば、それは非常に脆い体制で、国民が容易に不安感を抱く国家になってしまいます。
私は『Au オードリー・タン』(アイリス・チュウ、鄭仲嵐共著、文藝春秋)という本の台湾版で、ある言葉を載せています。日本語版には掲載されていないようなのでここで紹介すると、一つは、私の母親が手書きした4つの文字「中和萬華」。
「個々の文化も忘れられた文化もすべて文化である。文化に跨った一つの感じ方を創造しよう」という意味です。しかし、それは決して固定の文化をもって民族国家を定義しているのではない。文化に跨り、越境していくプロセスこそが我々の共通定義であり、それこそが「公民之國」の意味です。
多くの文化を越境するうえでのコンセンサスが得られている状態ならば、何かしらの文化が排除されることはない。それが「中和萬華」や「公民之國」であり、これらの概念に向かって絶えず努力するなかで、ナショナリズムが生む負の側面は自然となくなっていくかもしれません。
――一方で現代社会では、監視カメラで国家に24時間監視されているという感覚があります。一方的に監視されるだけでなく、インタラクティブな創造に繋げることはできませんか?
【タン】そうした創造の時代にすでに入っていますね。皆さんの携帯電話にはカメラがあり、ポッドキャスト(インターネット上で音声や動画のデータファイルを公開する方法の一つ)で録画し、リアルタイムで発信することもできる。
とりわけ台湾でインターネットコミュニケーションの多様化が加速しているのは、「四九九吃到飽」(499元の固定料金で外出先でも無制限にインターネット通信ができる。"吃到飽"は食べ放題の意)のおかげでしょう。
更新:11月21日 00:05