2021年12月28日 公開
2021年12月28日 更新
何よりアメリカとヨーロッパ諸国、アフガニスタン政府、そしてカルザイ政権ならびにガニ政権は20年間、アフガン民衆のためにいったい何をしてきたのだろうか。
欧米諸国が資金を拠出したはずのインフラ構築は、道路や電気、水道、ガスのいずれも地方にまで行き届いていない。
アフガニスタン国内には、首都カブールからマザリシャリフ、ヘラート、カンダハルまで円を描くような幹線道路がある。だが以前に通訳と運転手、コーディネーターとアフガニスタン全土を一周した際は、この道路すら未整備だった。
カブール~カンダハル間は至るところで内戦によって道路が破壊され、アスファルトがあちこち破壊されて道が凸凹になっていた。
アメリカがもたらした成果といえば当時、アフガニスタンの街を歩いて目にしたのが、花嫁がウェディングドレスを着た欧米式の結婚式だった。立派なビルや大型ショッピングセンターも増えたが、目に見える変化はその程度かもしれない。
行政や治安維持にしても本来、アメリカが土台をつくったのち、アフガニスタンの政府や軍・警察に移譲して速やかに引き揚げるのがアフガン国民にとってもプラスだったはずだ。
にもかかわらず20年間にも及ぶ内政干渉を続けた挙げ句、何もつくれずに去ってしまう。現地の絶望と諦念はいかばかりだったろうか。
アメリカのアフガニスタン統治はなぜ失敗したのか。大元を辿れば、イラク戦争に踏み切った情勢判断の誤りに尽きる。
2003年3月17日。当時のブッシュ大統領は突如、アメリカ全国に向けたテレビ演説で「48時間以内にサダム・フセイン大統領と家族のイラク国外退去を命じる。応じなければ全面攻撃を行う」旨を宣言し、イラクへの最後通牒を突き付けた。
なぜ当時、アフガニスタンの統治を捨ててイラクに手を出したのか。いまだに理解できない。想像するにブッシュ大統領は当時、アフガニスタンの混乱状況はある程度、収束したと判断してイラクへ舵を切ったのだろう。
たしかに当時、アフガニスタン各地を巡ってわかったのは「タリバンはアフガニスタン国内で十分な活動ができていない」ということだった。
とはいえ、理由も定かではなく突如、「サダム・フセインのイラクが大量破壊兵器をつくっている」と断言してアフガニスタンからイラクにパワーシフトを行い、フセイン政権を潰そうとした。
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更新:11月22日 00:05