2020年04月15日 公開
2022年08月02日 更新
フランスの元外相ユベール・ヴェドリーヌは2007年に、その著書『「国家」の復権』(草思社、邦訳は2009年)のなかで、われわれがグローバル化に夢を見るあまり、国家を軽視するような傾向を、次のように戒めていた。
すなわち、「わたしたちは現代国家としてなすべき仕事を、国際社会や国連その他の『救いの神』に押しつけて逃げてはいけない」のだ。
というのも、「国家が主権を放棄しても、ヨーロッパや世界、あるいはなんらかの民主的な場がそれを引き継いでくれるわけではない」からだ。
同様に北岡伸一氏も、2001年の対テロ戦争が始まった年に、「国家の時代は終わったということが言われて久しい」が、しかしながら「依然として国際社会ではそのもっとも重要な主体であり、それぞれの国内では最終的な意思決定者でありつづけるだろう」と論じていた(北岡伸一「国家の弁証――21世紀日本の国家と政治」『アステイオン』55号)。
この2人とも、グローバル化がもたらした国際社会の変化に十分に留意しながらも、それによって国家の役割が減じたわけではないと論じている。
それはじつに的確な指摘であった。だが、そのころに人びとは、グローバル化が不可避的な世界的趨勢であり、同時にそれが多くの福音をもたらすことを信じていた。
ところが、世界はようやくそのような地政学的な国家間対立という現実に目を向けるようになったというべきであろう。
だとすれば、日本という国家、そして日本国政府がこれまで以上に賢明な政策判断を行なわなければならない。
「救いの神」を探しても、見つけることはできないであろう。
更新:11月15日 00:05