米ソ交渉が正式に始まったのは1981年。その後も、交渉の対象となる兵器、地理的範囲をどうするかなど難問があり、交渉は中断を挟み、なかなか成果を見いだせなかった。
当時の米レーガン政権は、"グローバル、ゼロ・ゼロ"を掲げ、欧州だけでなく、アジアでのINF射程ミサイルの全廃をソ連に提案した。これに対し、ソ連側はウラル山脈以西の欧州部での全廃には話し合いに応じる姿勢を示したが、ウラル山脈以東のアジアでの削減や撤去を拒否していた。
日本政府が、緊張を強いられたのは、1986年2月6日。レーガン大統領はソ連側に提示する前に、書簡で中曽根康弘首相に「私はヨーロッパで米国とソビエトの長距離INFを全廃し、アジアのSS-20について、まず、少なくとも50%の削減を行ない、その後の削減でそれらをゼロにする提案を行なう」意向であることを明かした。このアジアの50%というのは、具体的には「86~90基」に当たると見積もられていた。
これに対し、中曽根首相は、86年2月10日付でレーガン大統領に返書を送付し「最良の解決は…米ソのすべての長射程INFをグローバルに全廃することであるとの貴大統領の信念を私も共有する」とグローバル・ゼロがレーガン大統領のそもそもの考えであったことを強調した。
その上で、「欧州ゼロ・アジア50%」という考え方は「アジアにおける核問題を独立した問題として惹起し」、アジアにおける「米国の核抑止力の信頼性の政治的安定度が損なわれる可能性」とアジアに残存するソ連のINFの廃棄の取引材料として「貴国が北西太平洋地域の安定のためにわが国を中心に展開させている海空軍の戦力の特定部分」が議論の対象となって米国の安全保障戦略が「支障を蒙る現実の危険性」を指摘した。
この「特定部分」とは、「三沢のF-16戦闘機、横須賀の空母艦載機などのFBS(前方配備システム)、この地域のSLCM(海洋発射巡航ミサイル)」が日本政府の念頭にあったようだ。
レーガン大統領は再び中曽根首相に親書を送り「欧州ゼロ・アジア50%」の方針を転換し、欧州とアジアでINFを比例的に削減して1989年末までに全廃する案で対ソ交渉に臨む考えを伝えた(1986年2月22日付親書)。
更新:11月25日 00:05