北京滞在の翌年、私は上海を訪問した。
大東亜戦争中の上海には、日本が設置したユダヤ難民地区があった。この地区に収容された難民の中には、杉原千畝による有名な「命のビザ」(スギハラ・ビザ)によって救われた者たちもいた。
「スギハラ・ビザ」を持った多くのユダヤ難民たちは、日本を経由した後に上海へと渡った。上海は当時、ビザがなくても滞在できる世界で唯一の大都市であったため、多くの難民が流入する地となっていた。
さらに、ハルビン特務機関長だった樋口季一郎の「ヒグチ・ビザ」によって助けられたユダヤ難民たちの多くも上海へと逃れていた。
ヨーロッパから満洲のオトポールにまで逃避してきた多くのユダヤ難民たちが樋口の指導によって救助された「オトポール事件」は、杉原の影に隠れてしまっているが、多くの人々に知ってほしい史実である。
1942年には、ドイツが「最終解決」としてユダヤ難民の虐殺を日本側に迫ってきた。しかし、日本はこれを断乎として拒否。そして、その翌年に日本側が設置したのが「無国籍難民隔離区」だったのである。
この隔離区には、外出制限や経済的な困窮といった負の側面があったのも事実だが、日本が難民を弾圧したわけでは決してない。
2007年にオープンした上海ユダヤ難民記念館(紀念館)には、杉原を「日本のシンドラー」として紹介するコーナーが設けられていた。史実に沿った冷静な記述と言えた。
しかし、その後の2015年、習近平政権が大々的に推し進めた「抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70年」の行事に合わせて、同館はリニューアル。その結果、杉原についての展示は大半が撤去され、代わりに「日本軍がユダヤ難民に残虐行為を行なった」という史実とはまるで異なる展示内容に歪曲されてしまった。
無国籍難民隔離区は「上海ゲットー」と表現された。
杉原や樋口の功績まで「歴史戦」の材料とされてしまったのである。
更新:12月04日 00:05